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大惨事は逃れたはずが...“優秀なパイロットへの有罪判決”が呼んだ悲劇の結末

マシュー・サイド(ライター)

2024年02月08日 公開

大惨事は逃れたはずが...“優秀なパイロットへの有罪判決”が呼んだ悲劇の結末

1989年11月21日、ブリティッシュ・エアウェイズのボーイング747型機「ノベンバー・オスカー」が、ロンドン・ヒースロー空港に緊急着陸した事故が起きた。

着陸時に濃霧のため視界不良となり、機長のウィリアム・グレン・スチュアートは「計器着陸」(計器を頼りに着陸すること)を行う事になった。しかし機長は着陸の際の安全規定を無視して降下を続け、高速道路沿いのホテルの屋根に機体をかすめるニアミスを起こした。

規定を故意に無視したと見做された機長は有罪に。しかし事故当日の状況や、機長の行動については様々な疑問が残る。詳細な状況を、事故の2日前まで遡って考察する。

※本稿は、マシュー・サイド(著)、有枝春(翻訳)『失敗の科学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を一部抜粋・編集したものです。

 

地上1.5メーターの大惨事

世間の大勢の人々にとって、スチュアート機長の過失は明白だった。最終的に大惨事は逃れたものの、規定に従わなかったことにかわりはない。限界高度の1000フィートを超えて降下したとき、操縦桿を握っていたのは彼だ。

事故から18カ月後の1991年5月8日。ロンドン西部のアイズルワース刑事法院において、スチュアート機長は、「過失により旅客機とその乗客を危険に陥れた」として有罪を宣告された。ベテランのパイロットが犯罪者となった瞬間だ。

しかし実際は何があったのだろう? スチュアート機長の行動は非難に値するものだったのか?本当に彼の過失だったのか? それともあのときは一連の予期せぬ出来事が起こっていて、彼は大惨事を避けようと必死で対応していただけだったのか?

この事故を詳細に振り返るにあたっては、スティーヴン・ウィルキンソンというジャーナリストが発表した貴重な調査レポートが参考になる。そのほか裁判関連の未発表書類、ブリティッシュ・エアウェイズの内部調査にかかわる極秘書類、目撃者からの聞き取り情報なども随時参照している。

事故の経緯について、ここからは前述のシンプルなものではなく、詳細なバージョンを紹介しよう。そのためには、時計の針をずいぶん戻さなくてはならない。

ノベンバー・オスカーがヒースロー空港に着陸を試みた時点まで戻しても、バーレーンを飛び立った瞬間まで戻してもまだ足りない。戻るべきはそこからさらに2日前、乗り継ぎ地のモーリシャスで、クルーたちが中華料理を楽しんでいた時間だ。

 

2日前、モーリシャスにて

連続したフライトが数日続いたあと、モーリシャスに着いたクルーたちは、一緒に夕食をとってゆっくりと羽を伸ばすことにした。スチュアート機長の隣には副操縦士のラフィンガム、航空機関士のレヴァーシャの隣には、この旅に付き添っていた妻のキャロルが座っている。気持ちのいい夜だった。

だが2日後、次のフライトのためバーレーンに到着した頃には、大変なことになっていた。ほぼ全員が胃腸炎に見舞われていたのだ。一番症状が重かったのはキャロル。

夫のレヴァーシャはモーリシャスにいる間に地元のブリティッシュ・エアウェイズ公認医師を呼んだが都合がつかなかったため、かわりに近々公認になる予定の同僚を紹介してもらった。キャロルはその同僚の医師に痛み止めを処方され、もしほかのクルーの調子が悪くなったらその薬を渡せばいいと言われていた。

バーレーンからロンドンに向けて飛び立つ予定時刻は深夜0時14分。通常ならその時間まで仮眠をとるところだが、モーリシャスから着いたときはすでに夜遅く、そのままヒースローまで夜間飛行をするという強行スケジュールだった。しかも胃腸炎の症状も出ている。理想的と言うには程遠い状況だった。

しかし、操縦士たちはプロだ。胃腸炎や疲労で、255人の乗客が待つフライトを中止するつもりはなかった。私の取材に応じてくれた航空機関士のレヴァーシャ(取材時は75歳だった)は、ハンプシャー州の田園地帯に構えた自宅でこう語った。

「クルーの症状の重さはそれぞれでしたが、みんな最悪の状態は脱したということで意見は一致していました。ブリティッシュ・エアウェイズに交代要員を用意させるのはプロとしてあるまじきことだと考えていました。さまざまな混乱を生じさせることになりますから。私たちは、自分の仕事を全うしたかった」

強い向かい風でフライトの状況は最初から厳しく、燃料の消費は早かった。しかも離陸直後、副操縦士のラフィンガムが体の不調を感じ始めてしまう。どうやら、胃腸炎がぶり返したらしい。

彼はコックピットの補助席に座っていたキャロルから薬をもらい、仮眠を取る許可をスチュアート機長にもらった。ラフィンガムはファーストクラスのキャビンに向かい、操縦は機長と航空機関士のレヴァーシャのみに任された。

 

濃霧のフライト

スチュアート機長はこの段階で一時着陸を考えた。テヘラン空港が唯一の候補だったが、イランの複雑な政治的情勢を考えると、そのまま飛行を続けるのが賢明だという結論に至った。レヴァーシャもこの意見に賛成する。そもそも、機長と副操縦士のどちらかが体調を崩して、もう一方だけで操縦を続けるのは珍しいことではなかった。

しかしフランクフルト上空に到達したあたりで、状況は一気に深刻になる。ヒースロー空港の天候が最悪だという情報が入ったのだ。霧が低く立ち込めて視界を塞いでいるため、「カテゴリーⅢ」での着陸(目視では滑走路をほぼ確認できない状況での計器着陸)を行わなければならないとのことだった。計器着陸のカテゴリーの中では、最も難度が高い。

ここで問題が生じた。スチュアート機長とレヴァーシャはカテゴリーⅢ着陸の資格を持っていたが、副操縦士のラフィンガムはブリティッシュ・エアウェイズでの勤務経験が比較的浅く、高難度のカテゴリーⅢに関してはまだ訓練さえ受けていなかったのだ。

そこで機長はブリティッシュ・エアウェイズのフランクフルト・オフィスに無線連絡をとり、ラフィンガムに対する規則の免除を求めた。つまり、資格なしでの着陸許可を求めた。

ブリティッシュ・エアウェイズはこれを口頭で許可。機長にカテゴリーⅢ着陸の十分な資格があったため、副操縦士への許可は重大なリスクにならないと判断した。事実、ブリティッシュ・エアウェイズではこうした規則の免除が日常的に行われていた。

やがてイギリス上空に到達した頃、ラフィンガムは副操縦士の席に戻った。ノベンバー・オスカーはロンドン上空で待機経路に入り、ヒースロー・アプローチからの進入許可を待つ。

だが、機長の後ろに座っていたレヴァーシャの頭には、このときわずかな不安がよぎっていた。機長は15分の休憩を1度とっただけで、もう合計5時間以上ほぼ単独で操縦を続けている。視界は最悪だ。燃料も残り少ない。レヴァーシャは、天候がましなマンチェスターに航路を変更したほうがいいのではないかと考えた。

「機長、マンチェスター空港に向かいましょう」

スチュアート機長はマンチェスター空港の天候を無線で尋ねた。続いてロンドン・ガトウィック空港の天候も確認し、3人のクルーは選択肢を検討した。しかしスチュアート機長が航路変更を決定しようとしたそのとき、ヒースロー・アプローチからようやく進入許可が下りた。

ところがここでまた新たな問題が浮上する。当初ノベンバー・オスカーは、東側からヒースロー空港に進入する予定だった。手元のマニュアルにも、その通りの細かい経路が記載されている。しかしヒースロー・アプローチは、霧がかなり晴れて天候条件が変わったと言い、西側からの降下を要請したのだ。

経路変更は多少困難だったが、決して惨事につながるような難しさではなかった。8000フィート(約2キロメートル)上空では旅客機は通常240ノット(時速約440キロメートル)で航行するが、着陸時までに140ノット(時速約260キロメートル)に減速できれば、滑走路をオーバーランすることなく安全に停止できる。

この減速は、降下する間に、エンジンの出力やフラップ(高揚力装置)の角度を調整しながら徐々に行うため、ある程度の航行距離が必要だ。

だが急きょ空港への進入方向が変わったことで、その距離は一気に25マイル(約40キロメートル)も縮まった。コックピットは一気に慌ただしくなる。マニュアルの図表を頼りに、新たな進入経路を計算し直さねばならない。

またこのときは10ノット(時速約20キロメートル)の追い風が吹いていて、時間の余裕はさらに削られた。コックピットに緊張が走る。クルー同士のスムーズな意思の疎通は次第に困難になり始めた。

 

トラブルの連鎖

しかし、ここでさらに予想外の問題が起こる。通常ならヒースロー空港の滑走路には、旅客機を誘導するためのさまざまな色のライトがついていて、ちょうどクリスマスツリーのように光っているが、そのライトの一部が点灯していないという無線連絡が入ったのだ。

もちろんこれだけでは大した問題ではない。もともと霧のせいで視界が悪く、何も見えないも同然だ。しかし、航空機関士のレヴァーシャはライトの不具合によって手順にどんな影響が出るのかを急いで再確認しなければならず、さらに手一杯の状態となった。

問題はまだあった。進入許可が下りるまでに時間がかかりすぎていたのだ。ヒースロー空港には濃霧が出ていたため、複数の旅客機が許可を待って上空を旋回している。旅客機同士の距離は詰まり、管制塔は緊張状態にあった。それでも刻一刻と厳しくなる状況下で、管制スタッフはベストを尽くしていた。

のちに明らかになったのだが、最終的に進入許可が出されたときには、規定の待機時間をすでに過ぎていた。ノベンバー・オスカーはもともと慌ただしい状況の中で、着陸を急がねばならなかった。

スチュアート機長は疲労困憊し、プレッシャーは高まるばかりだ。窓の外は白い霧以外何も見えない。見えるのは、空港への進入経路を水平方向と垂直方向で示してくれるふたつの誘導電波だけ。ところがノベンバー・オスカーのオートパイロットは水平方向の誘導電波を受信していなかった。

これは十中八九混雑したスケジュールに起因するもので、寸前に着陸したエールフランス航空の旅客機が、まだ滑走路にいて電波を妨げていたのだと思われる。スチュアート機長は、水平位置を示すローカライザーと垂直位置を示すグライドパスに目を凝らした。

ノベンバー・オスカーは、ロンドン上空を毎分700フィート(約200メートル)降下していた。時速は約200マイル(約320キロメートル)。コックピットの空気は張り詰めていた。しかしまだ誘導電波を受信できていない。このときの様子について、ジャーナリストのスティーヴン・ウィルキンソンは上述のレポートで次のように書いている。

「滑走路から真っ直ぐに伸びるローカライザー電波をとらえようと、ノベンバー・オスカーは、まるで臭いの行方を見つけられない警察犬のようにS字を描きながら左右に少しずつ移動を続けていた。

ノベンバー・オスカーの高度は、ついに規定の1000フィートを下回った。しかもコックピットのクルーが誰も気づかないうちに、機体は滑走路を逸脱して外周のフェンスを越え、空港沿いのA4高速道路に建ち並ぶホテルに急速に接近しつつあった。本来なら、この時点ですでにゴーアラウンドしていなければならない。

しかし、スチュアート機長は疲労困憊だった。燃料も残りわずかだ。副操縦士はまだ体調が悪くぼんやりとした状態で、着陸をアシストする資格も持っていない。この状況でのゴーアラウンドは、かえってリスクを高める可能性もあった。

それにさっき、ヒースロー・アプローチは霧が晴れてきた、と言っていた。レヴァーシャはのちに、この天候の情報があったために、機長はゴーアラウンドの指示を一瞬待って、機体が霧を抜けて滑走路を目視できるかどうか確認しようとしたのだと主張している。

まもなく、ノベンバー・オスカーは地上250フィート(80メートル弱)まで降下。ペンタ・ホテルの屋根をかすめるまであと6秒となった。スチュアート機長はコックピットの窓から目を凝らし、必死になって朝霧の向こうに滑走路のライトを探す。

255人の乗客は、まだ大惨事が目の前に迫っていることに気づいていない。コックピットの補助席でディーン・クーンツの本を読んでいたキャロル・レヴァーシャでさえ、大惨事の一歩手前にあることを把握していなかった。

機体が地上125フィート(約40メートル)まで降下した時点で、ようやくスチュアート機長はゴーアラウンドの指示を出した。手順では、上昇に移る際に機体がいったん下がる「高度損失」を最小限に抑えるため、できる限り迅速に上昇するよう決められている。

しかし、それが一瞬遅れた。機体はエンジンが加速する間、さらに50フィート(約15メートル)降下し、その後上昇。のちの調査では、ロンドンの霧の中、時速約200マイル(約320キロメートル)で飛行していた200トンのノベンバー・オスカーの着陸装置は、ペンタ・ホテルの屋根から5フィート(約1.5メートル)のところまで接近していたことが明らかになっている。

ゴーアラウンドのあと、ノベンバー・オスカーは、すでにご存じのように何の支障もなくスムーズに着陸し、乗客の間には拍手喝采が起こった。到着スケジュールには数分遅れただけだった。

副操縦士のラフィンガムは、機長の手が震えているのに気づいた。スチュアート機長にとってはパイロットとしてのキャリアの中で最も厳しい経験だったが、彼は心からベストを尽くしたと信じていた。着陸後、彼は一瞬祈るかのように目を閉じ、深い安堵の溜息を漏らした。

 

「誰かが罰せられるべきだ」という声

さて、この事故は本当にスチュアート機長の過失だったのだろうか? 彼の行動は非難に値するものだったのか? それとも、誰も予期し得ない困難の連続に対応していただけだったのか?

前述のシンプルなレポートでは、事故はスチュアート機長の責任に見えた。なにしろ、彼は規定を超えて機体を降下させたのだから。しかし詳細なバージョンを注意して振り返ってみると、新たな全体像が現れる。

次から次へと予測不可能な問題が起こる中、スチュアート機長が直面した厳しい現実を感じ取ることができる。すると突然、彼は困難な状況下でベストを尽くしたパイロットに見えてくるのだ。完璧ではなかったかもしれないが、犯罪に値する行動はなかった。

この事故について、私は大勢のパイロットや航空調査員、さらに監督機関の関係者と話をした。彼らの見方はそれぞれ異なっていたが、スチュアート機長を非難するのは間違いだという点では、皆意見が一致していた。

ブリティッシュ・エアウェイズが彼に責任を負わせたのも、英国運輸省民間航空局の弁護士が彼を告発したのも間違いだ。もしパイロットがこんな風に不当に非難されるとなれば、誰も自分のミスやニアミスを報告しなくなり、これまで航空業界にすばらしい安全記録をもたらす源となっていた貴重な情報は表に出てこなくなる。

だからこそ絶対に、単なる営利的・政治的な都合で非難に走ってはいけない。たとえ非難が必要な場合があったとしても、必ず現場の人間が直面する複雑な状況を熟知した専門家によって、適切な調査を行うのが先決だ。

事故の裁判で陪審団は、事実を鑑み最善の判断を下す努力をした。しかし、濃霧の中を時速約200マイル(約320キロメートル)で航行していた機長が下したとっさの判断について、法廷で落ち着いた評決を下すのは難しい。

「悲劇が起こった(あるいは危うく起こりそうになった)のだから、誰かが罰せられるべきだ」と非難合戦を始めるのは、驚くほど簡単だ。この事故はその容易さを我々に教えてくれる。

しかし、ミスに対して前向きな態度をとることで定評がある航空業界でさえ、非難の衝動と完全に無縁ではなかった。これはつまり、我々が非難の衝動と決別するためには、相当な努力と覚悟が必要となることを意味している。

 

悲しい結末

冬のある朝、私は航空機関士のブライアン・レヴァーシャと妻のキャロルのもとを訪れた。夫婦はロンドンから40マイル(約65キロメートル)離れた田園地帯で、この30年間静かに暮らしている。レヴァーシャはブリティッシュ・エアウェイズを辞職していた。自分や同僚への事故後の対応に失望したからだという。

イギリスの航空史上最も悪名高いニアミス事故から、今や20数年が経っている。私の取材に対して、彼は有罪を宣告された友人のスチュアート機長について多くを語ってくれた。

「真面目で思いやりのある、実に愛すべき人でした。いつも奥ゆかしい態度で、強い責任感がありました」

有罪を宣告された際、スチュアート機長にはふたつの選択肢が与えられた。罰金2000ポンド(約25万円)か、45日間の懲役か。機長は罰金を選んだ。

「情状酌量された判決内容から見てもわかりますが、判事はそもそもこの事故が裁判に値しないと考えていました」とレヴァーシャは振り返る。

「しかしグレンはこの一件で深く傷つきました。裁判にかけられる屈辱を受けた上に、有罪を宣告されたんですから。彼は本当に温かい心の持ち主でした。判決からほんの3日後、私と副操縦士に、責任はすべて自分にあるという文面の手紙をくれました」

レヴァーシャは私に段ボール箱を渡してくれた。そこには事故関連の書類やメモや報告書が、厚さ10インチ(約25センチメートル)ほど詰まっていた。この取材から2週間かけて、私はその書類の山を詳しく調べた。

中にはブリティッシュ・エアウェイズの内部調査報告書、弁護団とのやりとり、事故に関する技術的なデータがあった。

そんな書類の山を上から4分の3ほど見たところで、スチュアート機長がレヴァーシャに書いた手紙が出てきた。文面からは、本来なら殺人犯や窃盗犯や詐欺師が立つはずの被告席で、検察の追及を受けなければならなかった機長の道義心がにじみ出ていた。

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ブライアンへ
今回のフライトで(中略)君は経験を積んだ航空機関士として、私が期待する限りの責任を果たしてくれた。公式の手順書に指示された以上の働きをしてくれたと思っている。君のサポートのおかげで、私は安心して自分の仕事ができた。

(中略)ゴーアラウンドの事故については、君は手順書に書かれた標準対応も緊急対応も、なすべきことをすべてしてくれた。それ以外にも必要な手を尽くしてくれた。あれ以上は望めない優秀な対応だったよ。
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レヴァーシャは言う。

「彼が間違いを犯したとすれば、ブリティッシュ・エアウェイズの内部調査に全面的に協力しなかったことかもしれません。しかし、彼は会社が最初から自分に責任をなすりつけることを見越していたんです。

グレンは家族を大事にしていました。奥さんのサマンサと子どもたちを愛していました。それに、空を飛ぶことが本当に好きでした。

彼は子どもの頃、ルーカーズ空軍基地のタイガー・モス練習機がスコットランドの大空を飛ぶのを海岸から見て、パイロットになろうと思ったんです。その海岸は、彼にとって本当に特別な場所だったに違いありません。空を飛ぶことを愛するようになったきっかけの場所ですから」

スチュアート機長がつけていた日記は、1992年12月1日で終わっている。ちょうどノベンバー・オスカーがペンタ・ホテルのスプリンクラーを作動させたあの日から、3年と10日後だ。この最後の日について、ジャーナリストのスティーヴン・ウィルキンソンは、言葉少なにこう書いている。

スチュアート機長は、妻に何も言わずにウォーキンガムの小さな自宅を出た。そして車で9時間かけて、スコットランドの彼が生まれた場所から10マイル(約16キロメートル)離れた海岸に向かった。

彼はそこで車の排気管にホースをつなぎ、細く開けた窓から車の中へ引き込んだ。しばらくして彼は息絶えた。遺書などは、何も残されていなかった。

 

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