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源義経はどこに消えたのか? その不死伝説に迫る

中津文彦(作家)

2012年12月08日 公開 2022年05月23日 更新

義経は生きて平泉を脱出した?

源義経は、源平合戦で一ノ谷・屋島・壇ノ浦と連勝し、平家を滅亡に追い込んだ立役者。しかし、兄・頼朝との確執から奥州の藤原秀衡を頼って平泉に落ち、そこで自害に追い込まれた「悲劇の英雄」として語り継がれる。だが、『吾妻鏡』をはじめとする史料には、本当にそこで死んだのか、疑わしい記述が散見される。義経は生きて平泉を脱出したのではないか? だとすれば、かれはどこへ行き、何をしようとしていたのか?

本書『義経不死伝説』(中津文彦:著/PHP文庫)は、東北各地に残る「義経北行伝説」などを踏まえつつ、推理作家ならではの想像力で義経の「不死伝説」を長年検証してきた著者による決定版。第一部で史実として語られる義経の人生を整理し、第二部で「平泉から消えた」あとの足跡を推理し、第三部で周辺人物から見えてくる義経伝説の真相に迫っていく。
2012年4月に急逝した著者が、最後まで手を入れた渾身の書。
日本史最大の英雄の日本史最高の謎に迫る!

以下、内容の一部をご紹介します。

 

「北行伝説」に隠された秀衡のシナリオ

 秀衡はその死に臨んで「義経を大将軍としてその下知に従い、兄弟力を合わせてもり立てよ」と遺言したと、『吾妻鏡』は伝えている。自分の跡目は嫡男の泰衡に譲っているので、この場合の大将軍というのは政治的な主権者という意味ではなく、あくまでも軍事指揮官を指すものと思われる。

 この当時は棟梁が政権も軍事指揮権も併せ持っているのがこくふつうだったから、政治と軍事を明確に分離した秀衡の遺言は、確かに際立った特徴を持っていたといえよう。もちろん、自分が亡くなればいずれ対鎌倉戦はもはや不可避、との判断があってのものだった。

 秀衡の遺言については、これとは別に興味深い伝説も残されている。対鎌倉問題でいよいよ困難な事態に直面したときにはこれを開けよ、必ず秘策を授けるであろう――と、1つの文箱を残したとされているのだ。「義経を大将軍として――」というのが広く家臣たちにも示された表向きの遺言だったとすれば、こちらは泰衡や義経など、ごく内輪の者たちだけに残された極秘中の極秘のものだったのかもしれない。その真偽のほどはあくまでも不明だが、彼の死から半年たって義経が密かに平泉を脱出して北へ向かった、という北行伝説を考えるとき、なぜかずっしりとリアリティを感じてしまうのである。

 先に述べたような天下の情勢は、秀衡の死後も基本的には変わらなかった。西国では鎌倉の御家人たちが支配体制の拡充に懸命だったし、後白河法皇の態度も相変わらずだった。秀衡が亡くなったと知っても、頼朝は直ちに奥州に攻め込むほどの力はまだ持っていなかった。つまり、泰衡や義経たちにとって、対鎌倉戦の準備を整えるだけの時間的な余裕はあった。それは、秀衡も見越していたことだった。このような情勢下で、義経はなぜ、何のために北に向かったのか。

 これを逃避行とする見方には私は賛同できない。秀衡を失った義経は、ガックリもしただろうが同時に燃えていたはずである。大将軍となれ、という遺言が何よりも大きい。もし泰衡らがその方針に従わず、義経を疎んじるような態度を示したとしても、家臣団の中には慕ってくれる者たちも大勢いたはずで、反目すれば、むしろ泰衡のほうが立場が危うくなったかもしれない。また、そうした対立の危機を回避するために義経が自らの判断でこっそりと逃れていったとするなら、それから1年後の高館における泰衡の襲撃劇は何だったのか。鎌倉に対しては、義経はどこかへ逃げてしまったとありのままを報告したほうが、はるかに罪が軽かったはずなのだ。

 こう考えてみると、義経の北行は対鎌倉戦に向けた積極的な目的を持ったものだったとみたほうが納得できる。それでは、その目的とは何だったか。後白河法皇に結託を働きかけ、反頼朝勢力を糾合して鎌倉を北と南から挟撃する態勢を作ろうとしたことがまず考えられる。義経は法皇から厚い信任を得ており、源氏内部の不満分子からも人気があった。義経を旗頭にして法皇が後ろ楯となれば、頼朝にとっても一大脅威となるだけの勢力が結集する可能性は大いにあった。

 ただし、これらの工作を進めるためには、あくまでも極秘裏に動くことが必要だっただろう。少しでも不穏な行動が察知されれば、すべてが水泡に帰すのは目に見えている。鎌倉方も必死なのだ。厳しい探索の目を晦まそうと、義経は密かに北に向かい、そこから京都潜入を目指したのではないか、と想定できる。

 あるいは、いずれは攻め込んでくるであろう鎌倉軍を迎え撃つために大陸の騎馬軍団を調達しよう、という大戦略を胸に秘めての北行だった可能性もある。当時の大陸には、そうした発想を許す条件が整っていた。そして秀衡はそういった大陸の情勢について熟知していたとみて間違いない。

 奥州王国の最大の交易港だった津軽の十三湊を支配していたのは、秀衡の弟の秀栄である。この十三湊の繁栄の実態や、平泉との関係についての記録や史料の類はいっさい残されていない。しかし、十三湊が清衡以来の平泉の興隆を大きく支える存在だっただろうことは、多くの歴史家たちも暗黙のうちに認めているところだ。

 安東水軍と呼ばれた彼らは遠くインド洋からペルシャ方面まで活動範囲を広げていたとも伝えられ、日本海を挟んだ大陸から朝鮮半島にかけても多くの拠点を確保していたらしい。平泉を後にした義経が三陸海岸伝いに北上し、やがて津軽に至ったという伝説のコースを眺めてみると、もし逃避行だったなら十三湊のある津軽に姿を現すことはなかっただろう。たちまち御用となるはずだからだ。

 文治5年(1189)閏4月30日、泰衡は義経の館に兵を差し向けた。義経を捕らえて差し出せ、という頼朝の圧力に泰衡はついに屈したのだ、とする史観は、『吾妻鏡』の記述にすべてを頼っている。しかし、これを信じようとする眼前には、鎌倉に送り届けられた首がどうやら偽物だったらしい、という重大な疑惑が立ち塞がる。首実検をした鎌倉方の武将が疑惑を覚えた、というのだから事態は深刻なのだ。

 鎌倉幕府にとっては、義経が頼朝打倒に立ち上がろうとしたものの未遂に終わった、という記録を残すよりは、泰衡の報告通り平泉で亡くなったと記録したほうが好都合だった。それは誰が考えても当然である。史料というものは、それを記した者の立場を考慮して判読すべきなのは言うまでもない。信の置ける史料と言えども、書いてあることがすべて事実だとは限らないのである。

 秀衡の死から半年後。隠密裏に平泉を抜け出した義経は津軽にたどり着いた。そこから彼が目指したのは京都だったのか、それとも大陸だったのか。それは定かではないが、死期を覚った秀衡が渾身の力を込めて書いたシナリオに従っての行動だったのではないか、と想像すると目の前の霧がスーツと薄れていくような気がする。

 京都行なら、後白河法皇に提示する条件なども秀衡なりに用意されてあったのではないか。それだけのことができる人物だったのは間違いない。あるいは大陸行だったなら、現地の情勢に精通している者の同行派遣を求める安東水軍宛の依頼状なども用意してあったのではないだろうか。そして、いよいよ状況が切迫し、義経の消息が鎌倉方の重大な関心を呼ぶことになった場合には、忠臣を犠牲にした偽首献上の策を用いよ、と、そこまで周到な指示を残して黄泉の国へと旅立ったのではなかったか。

 頼朝の旭日昇天の勢いを見つめながら死期を覚った秀衡の無念さは、想像を絶するものがあっただろう。生きていれば、絶対にひけを取るものではない。その自信があった分だけ、悔しさが募ったのではなかったか。その秀衡にできることは、生ある間に可能な限り頭脳を絞って死後の対抗策を練り上げることしかなかった。たとえ自らの肉体は滅びようとも、頼朝ごときに決してむざむざと負けはしない。北方の王者には、それだけの気概があったはずである。敗者の側にも、勝者に勝るとも劣らない気概があったことを、秀衡のデスマスクは語りかけてくる。

 

中津文彦
作家
1941年、岩手県一関市生まれ。学習院大学卒。1982年、『黄金流砂』にて第28回江戸川乱歩賞受賞。歴史を題材としたミステリー、社会派推理分野で活躍。2012年4月24日、逝去。著書に『闇の弁慶』『秘刀』(以上、祥伝社)『消えた義経』『闇の関ケ原』(以上、PHP研究所)『政宗の天下』『義経の征旗』『風の浄土』(以上、光文社)『天明の密偵 小説菅江真澄』(文藝春秋)など多数。

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