『歴史街道』2013年9月号「総力特集・零戦と堀越二郎」より
「風立ちぬ」のモデルとなった父は、航空機設計がエブリシングでした
「仕事に没頭する姿や、男の一途さは相通じるところもある。人の心を揺さぶる映画で、私も途中から涙が止まらなくなりました」。映画「風立ちぬ」で描かれた堀越二郎について、そう語る長男・雅郎氏。未来を告げられた時のときめき、叱る時の厳しさ、そして零戦への思い……
家族だからこそ目にした、ありし日の姿とは。
「人類は百年以内に月に行けるよ」
宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」では私の父、堀越二郎がモデルになっています。飛行機に憧れた少年が、大学で航空工学を学び、飛行機作りに邁進する実話を縦糸に、さらに美少女との恋愛物語を横糸にして作られた物語です。もちろん、実際の父はあんなにロマンチストではなかったと思いますし、結婚もお見合いでしたから、そういう面では完全に宮崎駿監督の創作の人物ですけれども、自分の仕事に没頭する姿や、男の一途さは相通じるところもある。ある意味で、いいところだけを上手くストーリーにしていただいたな、という感じです。人の心を揺さぶる映画で、私も途中から涙が止まらなくなりました。
私が生まれたのは昭和12年(1937)6月です。零戦開発の「計画要求書」が海軍から提示されたのは同年10月ですから、私の誕生と零戦開発は同時期のことでした。私たち家族は、父の仕事の関係で、昭和20年(1945)3月まで名古屋に住んでいました。その後、父の職場が長野県の松本に移り、子供たちは父の生家の群馬県藤岡市に疎開しました。戦後、父は昭和23年頃に東京勤務になりますが、家族で一緒に暮らすことになったのは、子供たちが疎開先から東京に引き上げた昭和25年(1950)3月からです。
名古屋時代の父は、色々な写真を見ると子煩悩だったのだろうと思いますが、私が物心ついた頃には、起床する前にもう会社に行っているし、夜は就寝後に帰ってくるような生活で、土日も休日出勤でしたから、家にいた父親の記憶があまりありません。
私たちが群馬県に疎開した頃、父は身体を壊してしまい、しばらく帰省して家で寝ていました。快復後も、3カ月から半年に一遍くらいは群馬に来ていたと思います。父は歩くのが好きで、よくハイキングに連れていってくれました。妙義山、荒船山、浅間山、御荷鉾山、長瀞などあちこちに行ったものです。
印象深く覚えていることがあります。私が小学5年生の頃だと思いますが、父がハイキングへ連れていってくれた時に、「人類はこれから百年以内にロケットで月に行けるよ」と話してくれたのです。私は「ああ、すごいなあ」と思い、その話を学校の作文にも書きました。ところが、村のガキ大将は「お前の親父は誇大妄想狂だ」と言って譲りません。とても悔しい思いをしました。もちろん、当時の子供たちが信じられなかったのも無理はありませんが、現実には、それから20年余で人類は月に降り立つわけです。父から科学の未来を告げられてときめいたことも、周りから馬鹿にされて歯を食いしばったことも、いま振り返ると胸の奥が熱くなる思い出です。