ホーム » 生き方 » 家族が語る“零戦の設計者”堀越二郎(「風立ちぬ」のモデル)の素顔

家族が語る“零戦の設計者”堀越二郎(「風立ちぬ」のモデル)の素顔

2013年08月23日 公開

堀越雅郎(堀越二郎長男)

『歴史街道』2013年9月号「総力特集・零戦と堀越二郎」より

 

「風立ちぬ」のモデルとなった父は、航空機設計がエブリシングでした

「仕事に没頭する姿や、男の一途さは相通じるところもある。人の心を揺さぶる映画で、私も途中から涙が止まらなくなりました」。映画「風立ちぬ」で描かれた堀越二郎について、そう語る長男・雅郎氏。未来を告げられた時のときめき、叱る時の厳しさ、そして零戦への思い……
家族だからこそ目にした、ありし日の姿とは。

 

「人類は百年以内に月に行けるよ」

 宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」では私の父、堀越二郎がモデルになっています。飛行機に憧れた少年が、大学で航空工学を学び、飛行機作りに邁進する実話を縦糸に、さらに美少女との恋愛物語を横糸にして作られた物語です。もちろん、実際の父はあんなにロマンチストではなかったと思いますし、結婚もお見合いでしたから、そういう面では完全に宮崎駿監督の創作の人物ですけれども、自分の仕事に没頭する姿や、男の一途さは相通じるところもある。ある意味で、いいところだけを上手くストーリーにしていただいたな、という感じです。人の心を揺さぶる映画で、私も途中から涙が止まらなくなりました。

 私が生まれたのは昭和12年(1937)6月です。零戦開発の「計画要求書」が海軍から提示されたのは同年10月ですから、私の誕生と零戦開発は同時期のことでした。私たち家族は、父の仕事の関係で、昭和20年(1945)3月まで名古屋に住んでいました。その後、父の職場が長野県の松本に移り、子供たちは父の生家の群馬県藤岡市に疎開しました。戦後、父は昭和23年頃に東京勤務になりますが、家族で一緒に暮らすことになったのは、子供たちが疎開先から東京に引き上げた昭和25年(1950)3月からです。

 名古屋時代の父は、色々な写真を見ると子煩悩だったのだろうと思いますが、私が物心ついた頃には、起床する前にもう会社に行っているし、夜は就寝後に帰ってくるような生活で、土日も休日出勤でしたから、家にいた父親の記憶があまりありません。

 私たちが群馬県に疎開した頃、父は身体を壊してしまい、しばらく帰省して家で寝ていました。快復後も、3カ月から半年に一遍くらいは群馬に来ていたと思います。父は歩くのが好きで、よくハイキングに連れていってくれました。妙義山、荒船山、浅間山、御荷鉾山、長瀞などあちこちに行ったものです。

 印象深く覚えていることがあります。私が小学5年生の頃だと思いますが、父がハイキングへ連れていってくれた時に、「人類はこれから百年以内にロケットで月に行けるよ」と話してくれたのです。私は「ああ、すごいなあ」と思い、その話を学校の作文にも書きました。ところが、村のガキ大将は「お前の親父は誇大妄想狂だ」と言って譲りません。とても悔しい思いをしました。もちろん、当時の子供たちが信じられなかったのも無理はありませんが、現実には、それから20年余で人類は月に降り立つわけです。父から科学の未来を告げられてときめいたことも、周りから馬鹿にされて歯を食いしばったことも、いま振り返ると胸の奥が熱くなる思い出です。

 

「要求水準」が高かった父

 家族一緒に東京で暮らすようになって、父が勉強を教えてくれるようになりましたが、とにかく「要求水準」が高い(笑)。私が出来ないと「なぜこんなのがわからないのか」と怒鳴られることもしばしば。とても怖い思いをしました。父の2歳年下の叔母から「二郎さんは優しくて教え方が上手かったから、成績が良くなって本当に鼻が高かった」と聞いていたので、なぜ私だけ、と理不尽に思いましたが、今にして思えば、父も戦後、敗戦国として航空機開発を連合軍から禁止され、色々な悩みやストレスもあったのでしょう。また、そんな先行き不安の中で、自分は身体を壊し、子供を6人も抱えていましたから、せめてきちんと教育だけはしておかなければとの焦りもあったに違いありません。

 その後、私も身体がだんだん大きくなり、父も一目置いてくれるようになって、高校からは「父が怖い」という意識はなくなりました。大学入学もとても喜んでくれて、こちらも生意気にも対等になったという思いもあり、零戦のことなども色々話したものです。

 振り返ると、父から教訓めいたことは一切言われた記憶がありません。私が技術屋の道を選ばなかったことで、がっかりもしませんでした。「本人が良ければ」と子供たちの価値観を大切にしてくれたように思います。

 また、勉強以外で叱られたこともあまりありません。父は身体がそれほど丈夫ではありませんでしたから、私が高校でラグビーに打ち込むのを見て、「お前は俺と違って体力があるから、スポーツをやってもうまくいくよなあ」などと喜んでいました。

 父は、ゴルフは好きでした。「ハンデはいくつだったの?」と聞くと、「俺は12だったけど、お前は俺よりずっと力があるから、12は突破するだろうよ」と言われた記憶があります。結局、私も抜けずに12止まりでしたが、父を誘って3度ほど一緒にゴルフコースを回りました。戦後、日々の生活に追われて腕前を落としていたようでしたが、父らしい淡々としたプレースタイルで、とても嬉しそうにしていました。

 やはり父はとても几帳面な性格だったと思います。私の家内は結婚した時、トイレに「鎖はゆっくり引くこと」「水は流しきること」とか、洗面所に「歯磨きのチューブは下からしぼり出すこと」という注意書きが書いてあったことにとても驚いたそうです。また布団も、襖と直角にきちんと敷いていました。資料の整理もとても几帳面でした。若い頃の欧米出張の報告書の控えも完全な形で2冊残されていました。その際の写真も数多く撮っていて、裏にはいつどこで撮影したかきちんとメモを書いています。その他、開発の打ち合わせなどの記録を書いた備忘録もたくさん残っています。このような資料は、所沢航空発祥記念館さんや藤岡歴史館さんに引き取っていただけることになりました。とてもありがたいことです。

iyashi

関連記事

編集部のおすすめ

菅野直と紫電改―指揮官先頭を貫いた闘魂

高橋文彦(作家)

飛龍反撃!ミッドウェーで一矢報いた山口多聞

山内昌之(歴史学者)

加藤隼戦闘隊 3つの訓示

梅本弘(歴史作家)


WEB特別企画<PR>

WEB連載

アクセスランキング

WEB特別企画<PR>

WEB連載

iyashi
  • Facebookでシェアする
  • Twitterでシェアする

ホーム » 生き方 » 家族が語る“零戦の設計者”堀越二郎(「風立ちぬ」のモデル)の素顔