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生き方

新島八重と新島襄~奇跡の出会い

楠木誠一郎(作家)

2013年08月30日 公開 2022年12月07日 更新

ハンサムな女性

明治8年(1875)10月15日、山本八重と新島襄は婚約した。

ときに八重31歳、襄33歳。

襄が八重のことを気にするようになってから、どのように話が進んだのかはわかっていないが、おそらく、襄のほうから槇村正直に「あの娘なら嫁にしたい」と申し出て、槇村が山本覚馬に伝え、覚馬が八重に伝えたのではないだろうか。

襄は、ハーディー夫人に宛てた手紙で書いている。

「彼女はいくぶん目の不自由な兄に似ています。あることをなすのが自分の務めだといったん確信すると、もう誰をも恐れません」(『新島襄の手紙』)

さらに襄は、同夫人に書いて送っている。

「ほんの数日前に撮った彼女の写真を同封します。ごらんになるとすぐお分かりのように、彼女についてなんらかのご批評がいただけるものと思います。もちろん彼女は決して美人ではありません。しかし、私が彼女について知っているのは、美しい行いをする人だということです。私にはそれで十分です」(同)

原文の英文には、「She is not handsome at all She is a person who does handsome」とある。

ここから、現代の日本で用いられている「ハンサム・ウーマン」という言葉が生まれた。

 

襄と八重の結婚

襄は、八重との結婚式の日取りは宣教師たちに任せていたが、婚約から2ヵ月半後の明治9年(1876)1月3日に決まった。

年が明け、八重は32歳、襄は34歳となった。

結婚式を挙げるに先立ち、1月2日、京都御苑内の柳原前光旧邸の宣教師デイヴィスの家で八重は洗礼を受けた。

1月3日、デイヴィスの家で、デイヴィスの司式のもと、八重と襄は結婚の式を挙げた。

列席したのは、山本家の家族一同、ラーネッド夫妻、そのほか、若干の知人、同志社の生徒たちだけという、きわめて質素なものだった。

この結婚式は、キリスト教(プロテスタント)に基づく式典としては、京都ではじめてのものだった。

こうして、山本八重は、新島八重となった。

襄と八重は、新烏丸頭町の襄の借家に住みはじめた。

 

八重の悪評判

欧米流のレディファーストが身についていた襄と、男勝りな性格だった八重は、ある意味、似合いの夫婦だった。

八重は襄のことを「襄」「ジョー」と呼び捨てにし、襄のほうは八重のことを「八重さん」と「さん」付けで呼んだ。

これが、八重にも襄にも、あたりまえのことだった。ふたりは、それぞれがひとりの人間であり、夫婦は平等でなければならないと思っていたからだ。

だが、男尊女卑があたりまえの明治時代にあっては、世間の目はちがっていた。

夫をかしずかせているように見え、ふたり乗りの人力車に、夫よりも先に乗るため、世間からは「悪妻」と評された。

八重に対する批判、ニックネームは「悪妻」だけではなかった。

先述したとおり、府庁に乗り込み、女紅場への補助金を増やしてくれと槇村に直談判したことから「烈婦」と言われた。

また、同志社英学校の学生たちの演説会に夫婦で出席したとき、演壇に立った熊本バンドの徳富猪一郎(蘇峰)が言った。

「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺 〈ぬえ〉 のような女性がいる」

「鵺」と表現した理由は、髪を真ん中から分け、西洋婦人のように大きな飾り付きの夏帽をかぶり、和服に靴を履いて、帯の上に時計の鎖を見せた折衷姿で、日本人なのか西洋人なのか、わからない格好をしていたことにある。

だが八重は、まったく動じることはなかった。

徳富猪一郎(蘇峰)は、自分たちが敬愛している校長新島襄にたいし、学生たちの前ですら「余りに馴れ馴れしき」態度をとっている八重が許せなかったらしいのだ。

熊本バンドのひとりとして、兄猪一郎(蘇峰)とともに京都に来た健次郎(のち徳冨蘆花)は、さらに八重のことを「脂ぎった赤い顔で、ねちねちした会津弁でしゃべる、相撲取りのように肥えた身体の持ち主」と悪しざまに批判した。

徳富兄弟だけでなく、「新島先生の結婚は生涯の失望」とまで言う生徒もいた。

彼らの証言が、のちに八重を「悪女」たらしめることになる。

 

襄と八重の新居

明治11年(1878)9月7日、この日、襄と八重の新居が竣工し、新烏丸頭町の借家から引っ越しをした。

場所は、上京区第二十二区松蔭町十八番地(寺町通丸太町上ル)。

ここは、そもそも同志社英学校を発足させた場所だった。だが旧薩摩藩邸の敷地に校舎を建てたため、ボストンに住む襄の友人J・M・シアーズの寄付金で、土地ごと高松邸を購入し、自邸を建てることにしたのだ。

土壁で囲まれており、外から見るかぎりは武家屋敷に見えた。

建築にあたって、同志社英学校教師をしている宣教師W・テイラーの助言をもとに、京都の大工によって建てられた。

外観は―― 1階と2階の東、南、西の3面にはバルコニーを巡らせていたが、和風の真壁造りでもあった。

床下は高く風通しが良く、日差しを避けるため屋根の庇も深かった。

窓は、ガラス戸の外に木製の鎧戸を取り付け、上部に障子欄間が嵌め込まれていた。

寺町通りに面した木戸を抜け、前庭の小道を歩くと玄関があった。

部屋はいずれも洋間で板敷きのフローリングだった。

玄関を入ってすぐ右には、18畳ほどの応接間。応接間には襄愛用のオルガンもあった。

応接間の東南隅には鉄板で囲った暖炉があり、大きな角筒形の煙突を鉄板で囲み、屋根のうえに出し、余熱で1階、2階を暖めていた。セントラル・ヒーティングは、明治初期にしては珍しかった。

応接間の隣が、襖で仕切られた食堂。

応接間とドア越しの西南角に居間。

その居間ともドアで通じた東南角の書斎には壁一面の書棚、襄が使う机、椅子、窓ガラス越しに庭の緑が見える。

台所は土間になく、床板のうえに流しを設置しており、井戸も屋内にあった。

トイレは板張りの腰掛け式、つまり洋式トイレだった。現存する日本最古の洋式トイレとされている。

箱階段を上がった2階には、居間1部屋と寝室3部屋があり、いずれも板敷きのフローリング。寝室には小さい木製ベッドがあった。

敷地の北西角には、母屋と渡り廊下でつながった付属家があり、そこは、襄が両親の隠居所として建てたもので、和室が4つあった。江戸藩邸内にあった住居に準じて作ったといわれている。

襄と八重らしい、和に洋を取り入れた家になっていた。

昭和60年(1985)に京都市指定有形文化財に指定され、現在は、新島記念館として保存されている。

夫婦は、この家で生涯を送ることになる。


<書籍紹介>

新島八重と新島襄
「幕末のジャンヌ・ダルク」と「平和の使徒」と呼ばれた夫婦

楠木誠一郎 著
本体価格 1,400円
自ら銃を取って戦った八重、自由と平等を訴えた同志社の創立者・襄。ふたりの波瀾万丈の生涯と人間的魅力をエピソードを交えて追う。

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