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生き方

真のラストサムライ・小野田寛郎 たくましさのルーツは「名草戸畔」

小野田寛郎(小野田自然塾理事長)

2014年01月27日 公開 2023年01月11日 更新

 

 こんな小野田家には、実は先祖代々伝わる1つの口伝がある。小野田家の負けじ魂のルーツに関わる話である。少し余談になるが、ここで紹介したい。今はもう、私がそれを継承する最後の1人になってしまった。

 中身は古代の神武天皇にまで遡るが、ひとことで言えば、小野田家は名草戸畔(なぐさとべ)という古代の首長の子孫ということだ。名草戸畔は『日本書紀』にただ1か所「神武に殺された」と出てくる。

 私が聞いた口伝によれば、神武が全国を支配していく過程(神武東征)で、他の諸族は次々に屈服したにもかかわらず、和歌山の名草(現在の海草都)の人々だけは名草戸畔がリーダーとなって迎え撃ち、神武軍を撃退した。それでやむなく神武軍は紀伊半島を迂回して熊野に入らざるを得なかった。

 実はこのとき名草戸畔は戦死したのだが、土地の人々はその死を悼んで、遺体を頭、胴体、足の3つに分断し、それぞれ別の神社に埋めてお祀りした。その頭(こうべ)を祀っているのが宇賀部神社(海南市、通称おこべさん)で、私の実家である。神社といっても、実は小野田家の先祖のお墓でもあるのだ。

 だから、名草の人々は最後まで神武に屈服したとは思っていない。負けん気が強いのである。やがて神武が初代天皇として日本を統治するようになり、役人がこの地へやってきても、結局、治めきれなかったという。

 こういう反骨精神は、今でも紀州人の中に流れているし、私も確実にそれを受け継いでいる。ジャングルでの戦いやブラジルでの牧場開拓は、こうした私の負けず嫌いの成せるわざだったかもしれない。

 


<書籍紹介>

生きる

小野田寛郎 著

ジャングルで30年間戦い抜いた戦士が、いま日本人に語りかけたいこととは。絶望や困難に屈せず、強くたくましく生きるための教訓。

 

<著者紹介>

小野田寛郎(おのだ・ひろお)

大正11年(1922)、和歌山県生まれ。昭和14年(1939)に旧制海南中学卒業後、貿易商社に就職し中国に渡る。昭和19年(1944)9月、陸軍中野学校二俣分校に入校、12月にフィリピンのルバング島に派遣される。以後30年間、作戦解除命令を受けることなく任務を遂行し、昭和49年(1974)に帰還。昭和50年(1975)4月、ブラジルに渡り牧場を経営。昭和59年(1984)、子供たちのキャンプ「小野田自然塾」を開設し、理事長煮就任。平成26年(2014)1月、死去。
主な著書に、『わがルバン島の30年戦争』(講談社)、『たった一人の30年戦争』(東京新聞出版局)、『わが回想のルバング島』(朝日文庫)、『君たち、どうする?』(新潮社)、共著に『靖国神社』(神社本庁編、PHP研究所)などがある。

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