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生き方

【一人一業 私の生き方】月謝を払いたかったほどのホンダ人生

吉村征之(ドリームモータースクール社長)

2014年12月03日 公開 2023年01月30日 更新

《『PHPビジネスレビュー松下幸之助塾』2014年11・12月号より》

 

月謝を払いたかったほどのホンダ人生

――「やらまいか精神」で夢を拓け

<取材構成:加賀谷貢樹/写真撮影:村松弘敏>

 

ホンダの理念とともに生きる

 午前4時半。

 風光明媚()な信州の自然に魅せられたドリームモータースクール(長野市)社長の吉村征之()さんが、愛用の一眼レフカメラを持って家を出る。

 戸隠()連山や志賀高原をはじめ、四季折々にさまざまな表情を見せる被写体には事欠かない。今まさに太陽が昇ろうとする瞬間の、だれも見たことのない風景を求めて、カメラのファインダーをのぞくのが吉村さんの日課。7時半ごろに帰宅し、シャワーを浴びて軽い朝食を取り、8時には出社する。

 吉村さんは1960年に、設立12年を迎えた本田技研工業に入社。創業者の本田宗一郎氏、本田氏の右腕として同社を世界企業に育てた藤澤武夫元副社長を直接知る人物だ。

 本田技研が国内の自動車メーカーとして初めて手がけた安全運転普及事業に20年以上携わり、1981年の国際障害者年に合わせて、サリドマイド障害者の白井典子(現在の表記は「のり子」)さんの夢をかなえるためにスタートした、「足だけで運転できる車」の開発プロジェクトでも中心的な役割を担った。

 まさに本田技研の原点を知り、「人間尊重」という同社のフィロソフィーを体現してきた吉村さん。「真っ白なキャンバスに絵を描き続けてきた」と、みずからの人生を振り返る。

 

自立と工夫を学んだ少年時代

 吉村さんは1941年、本田技研発祥の地である静岡県浜松市で生まれた。綿織物が浜松地域の地場産業の一つで、父は繊維工場を共同経営。産婆(助産師)を務める母は、戦後のベビーブームの中で忙しく飛び回っていた。

 吉村さんが幼少期を過ごした戦後まもないころはモノがなく、皆が貧しかった。だが、そんな中にあっても、貧しさにうちひしがれるような悲壮感は、不思議となかった。

 「どの家も貧乏でしたが、今で言うと、とても明るい貧乏でした」と、吉村さんは語る。

 昔の子どもたちは、モノがなければないなりに、竹馬でも水鉄砲でもゴム鉄砲でも、自分でつくって遊んだものだった。吉村さんも近所で孟宗竹()を切ってきて、手押し式の井戸ポンプから風呂に水を引く()をつくったことがある。太い竹を縦に半分に割り、節を落として、水がスムーズに流れるように工夫を凝らした。自分で考え、試行錯誤するから、知らず()らずのうちに知恵がついてくる。

 小学校4年生のころは甘納豆屋に手伝いに行き、中学では用品屋でアルバイトして、自分の道具を自分で買った。こうした中で、人に頼らず自分で生きていくことを学んでいったのだ。

 大学に行きたいと思ったこともあったが、6人兄弟で暮らし向きが楽ではなかったために、働き手がほしいという親の希望で静岡県立浜松商業高校に入学。

 高校3年になり就職シーズンを迎えたが、当時の就職事情はなかなか厳しかった。東京都内の会社を受けようと思い、学校推薦も得た。ところが、地元の本田技研が大ヒット商品「スーパーカブ」を1958年に生産開始し、元気がよかったことに気づく。会社が自宅からも近いので、受験することにした。

 結果は、その年に母校から20数名が本田技研を受けて、合格したのは6人だけ。学校推薦もなく一般受験で臨んでいたものの、吉村さんはみごとにその6人のうちの1人となった。

 

1週間に1本以上改善提案を提出

 1960年に浜松商業高校を卒業し、本田技研に入社した吉村さんは、意外なことに機械課に配属された。商業高校出身者は会計課や管理課、資材課などの間接部門に配属されるのがふつうだったのだ。

 思い当たることはあった。「面接で『もし受かったら、どんな仕事をしたいか』と聞かれましたが、仕事の中味なんか分かるわけがありません。たまたま木造の建物の奥に『機械課』と看板に書いてあったので、それを見て『機械課って面白そうですね』と答えたんです」と吉村さん。

 吉村さんが担当したのは、オートバイのエンジンに用いられるコンロッドの機械加工。ピストンとクランクシャフトをつなぐ重要な部品で、来る日も来る日も生産に追われた。

 機械を見るのも触るのも初めてだったが、実習でも懇切丁寧な指導はない。先輩たちの作業を見て盗み、必死に仕事を覚えた。

 入社後数カ月で、同年4月に新設された鈴鹿製作所(三重県鈴鹿市)に転勤し、毎日油まみれになって3交代勤務をこなしたという。

 鈴鹿では寮生活を送ったが、勤務シフトがバラバラで、仕事を終えて部屋に戻っても同僚たちがいない。「やることがない、どうしようか」と考えた末、同社が他社に先駆けて導入していた改善提案制度に目が留まった。

 「作業効率が上がれば、自分も仲間も楽になる。1週間に1本以上、どんなことでもいいから提案してやろう」

 と思いついた吉村さんは専門書もひもとき、機械から潤滑油、加工技術、電気関連に至るまで、あらゆる事柄を勉強し、現場で感じる不便さや非効率を改善する方法を考えた。

 たとえば従来は、コンロッドの材料3本を一度に機械にセットして加工を行なっていたが、それを10本にするにはどうすればいいのか。

 また、機械を止めずに、加工済みの製品を取り出して検査し、次の部品を機械にセットするにはどうしたらいいか。

 工場を訪れた見学者の「係員の説明が聞こえない」という声に応え、イヤホンで説明を聴ける装置を提案したこともある。

 少年時代に孟宗竹で樋をつくろうと、あれこれ工夫を凝らした姿を彷彿()とさせるものがある。

 

2000人に1人の難関を突破

 そんな吉村さんに大きな転機が訪れる。本田宗一郎氏の長年の夢だった四輪分野への進出が決まり、全社からスタッフを集めるという情報を耳にした。1963年のことだ。

☆本サイトの記事は、雑誌掲載記事の冒頭部分を抜粋したものです。

 

<記事掲載誌>

PHPビジネスレビュー松下幸之助塾 
2014年11・12月号Vol.20

 11・12月号の特集は「生誕120年 松下幸之助 経営者としての凄み」
 松下幸之助がこの世に生をうけたのは、明治27(1894)年11月27日。今年は生誕120年にあたる。今日の日本において松下の存在は、特に中小企業の経営者にとって依然、色褪せてはいない。幼くして生家は没落し、小学校中退で丁稚奉公に。健康に恵まれず、若くして親きょうだいをすべて亡くすという境遇。そのような人間が経営者として成功しえた理由はどこにあったのだろうか。
 本特集は、その松下幸之助の経営者としての本質を、直接教えを受けた部下たちの証言から考えてみる。語られるエピソードをとおして、その経営者としての凄みを感じてみたい。
 そのほか、エイチ・アイ・エス会長の澤田秀雄氏の幸之助論や、キヤノン電子社長の酒巻久氏、日本マイクロソフト社長の樋口泰行氏の実践経営論も、ぜひお読みいただきたい。

 

 

BN

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