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生き方

死と向き合う覚悟が、本当の生きる意味を認識させる

山折哲雄(宗教学者)

2015年06月29日 公開 2023年02月01日 更新

仏教を知るには釈迦の歩いた道を歩け

そうなると、その匂いの源泉を捕まえないと、宗教や哲学の根源は捕まえることができないだろうと、だんだん思うようになってきた。

で、私は、長年学生諸君と一緒に勉強してきたんですが、その学生諸君によくこう言ったもんです。「仏教を理解したいなら、お釈迦さんの人生を理解しろ」と。そしてインドに行って、釈迦が歩いたその道を、実際に歩いてみなければわからないぞ、と。

キリスト教を理解しようとするなら、イスラエルへ行って、イエス・キリストの歩いたルートをたどってみることが必要じやないかって、よく言うんですよ。

私の場合そういうことがあって、インド体験を重ねるようになったから、その後の研究生活が続けられたということもあるかもしれません。やはり、テキストだけではわからない、古代社会や中世社会を文献で研究するだけでは納得できないし、満足できない。
 

自殺者3万人の時代

日本では年間、自殺者が3万人も出ると言われていまして、交通事故死亡者より多いそうですね。この状態が、もう10年以上続いていると言うんですが。

そうなった背景には、いろいろな原因が考えられると思います。

私がいちばん大事だと思っていることは、まず日本の戦後教育、あるいは社会通念と言ってもいいかもしれませんが。それは、生きる力を大事にしようということなんです。文部科学省になる前、文部省の時代からずーっと、日本の教育では生きる力、生きる力と言ってきたわけですよね。

ところが、死をどう受け入れるか、死をどう認識するか。死ぬことに関する直観というか、感受性というか、そういうものを教えたり伝えたりすることはほとんどやらないで来ている。つまり、力一本槍でした。

同じことが、「共生」という言葉にも表れています。共に生きる。これこそ、あらゆる分野の人が、人間同士の共生、人間と環境との共生、自然との共生、動物、植物、昆虫たちとの共生……。共生、共生と言い続けてきた。

だけど私は、生きものというのは共に生き、やがて共に死ぬ運命にあるものだと。そういう共同体で共に生きているんだと。だから本当に、共生というものを大事にするなら、共死ということも同時に言わなきゃいけない。

「共生共死」と言ってはじめて、共に生きることがいかに有り難い、大事なことか、尊いことかがわかるはず。ところがその、共死ということをほとんど言わない。仏教界もその言葉を言わないわけですよ。

いちばん先に言うべき仏教界が、共生、共生で来ているわけです。それで、この、生きる力万歳! 共生一本槍の教育で半世紀やってきた。死ぬ、殺す。そういう問題を主体的に考える教育の場、社会の場がなくなっているんです。

 

戦後社会が死を遠ざけた

その死ということを、できれば見たくない、一種忌み嫌う傾向になって来たのは、いつからかと言えば、それは特に戦後だと思いますよ。あの悲惨な戦争体験が、そうさせたんだろうと思います。

あの戦争を、日本人が、われわれの先輩たちがやった。だからどうにかして、戦争のない平和な時代をつくらなければならない。これは当然のことで正しいことだった。

ただ、それがですね、死ぬという人間の運命の根本的な問題について、正面から考え、正面から立ち向かうエネルギーまで、同時に押し流してしまった。

ここが問題なんですよね。それで半世紀来ましたからね。これはね、ちょっとやそっとの即効薬で、治るような症状じゃないと思います。

自殺者が増えて来ているということは、死に対する考え方が、脇に押しやられてきたことから来る、一種の精神の弛緩状態というか“ゆらぎ”が、一つあると思いますね。ちょっと厳しすぎる言い方かもしれませんけれども。

死というものに対して、なるべく目を覆い、触れないようにするのは、私たちの暮らしの様式を含めてそうなってしまった。核家族が増えたとか、家の中に仏壇が無くなったというようなこととも関係しているのかもしれません。

昔は、親・子・孫が一緒に住む三世代家族が多かったですし、私自身も家の中で、祖父を看取った経験があるんですね。

それがだんだん、病院で亡くなる方が多くなってしまう。それでご遺体が、病院から火葬場に運ばれてしまう。葬儀産業というのがあって、その業者が葬式を執り行う。で、肉親や知人の死というものを、自分の問題として主体的に受け止める時間がどんどん少なくなっていくし、死そのものに触れる機会もなくなって来ています。

近代社会の利便性と、衛生的な社会空間をつくるということでは、それなりの意味があったと思いますけど、しかしそのことが、人生にとって最も根本的な問題を遠ざけてしまったとも言えるでしょう。

そのことをもう一度、教育や社会の場で、われわれの日常的な考えや感じ方の中にどうやって取り戻していくか。これは非常に大事な問題だと思いますね。

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