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原発対処――日米協力の舞台裏

2011年07月04日 公開

長島昭久(衆議院議員)

事故当初、深刻な危機に直面した日米関係

 今回の東日本大震災および福島第一原子力発電所の事故では、世界各国から日本に、さまざまな支援の手が差し伸べられた。とりわけ、同盟国であるアメリカからは、「トモダチ作戦」と称された災害救援オペレーションをはじめ大規模な支援が寄せられた。この国難において、いずれもまことにありがたいものであった。

 だが、これを受けて、一部では「今回のアメリカの支援で、ますます日本が属国化することが避けられなくなった」などという根拠のない批判も聞かれる。そこで、私が関わったほんの一断面ではあるが、今回の原発事故をめぐる日米協力の実態を振り返りつつ、わが国の危機管理のあり方から今後の日米関係を展望してみたい。

 率直にいって、事故当初の数日間で日米関係は深刻な危機に直面していた。この点については各新聞も、「11日夜、東京・赤坂の駐日米大使館からは、A4判紙2枚に提供可能な支援内容約20項目を書いた『オファーリスト』が何度もファックスで外務省北米局に送られてきた。無人偵察機など原発対応の装備も含まれていた。これに対し、菅直人首相は官邸内での打ち合わせで『日本でできることは、米国に頼む前にまず日本がやる』と漏らした。危険な仕事を米国に押しつけるわけにはいかないというのが真意だったが、発言は外務・防衛当局に伝わり、『首相は米国の支援を断わった』との曲解情報として流布される伏線になった」(『毎日新聞』4月22日付)、「北沢俊美防衛相は、米政府が派遣した原子力規制委員会(NRC)の専門家がなかなか日本政府側と接触できなかったことを明かし、『米側は拒否されたと受け止め、あの温和なルース(駐日米)大使も相当強い言葉で首相官邸にいろいろ言った』と振り返る」(『朝日新聞』4月30日付)などと、さまざまなことを報じている。

 ここでいちいち事実関係を論じるつもりはないが、この間に日米のさまざまなソースからアメリカの「いらだちの声」が私のもとへと寄せられてきたことも事実だ。もちろんアメリカ側も、「これだけの震災と津波と原発事故が起こったのだから、いかなる政府であっても情報が錯綜し、対応が混乱するのは仕方がない」と考えてはいた。しかしそれでもなお、すでに人命救助に相当数の米軍を差し向け、かつ原子力規制委員会(NRC)の専門家が2、3日後には日本に来て情報収集に当たっていたのに、必ずしも日本側から効果的な情報提供、あるいは意思決定が行なわれず、米政府内にそうとうなフラストレーションが溜まっていったのである。

 ただ、原発の状況をめぐっては、非常用も含めすべての電源がシャットダウンしてしまい、計器もまったく作動しなくなったなかで、日本政府自体、状況把握は困難を極めた時期だけに、多少の情報混乱はやむをえない面もあった。そのために、日本政府ないし東電側の状況認識とアメリカ側の認識にかなりのギャップが生じ、それがお互いのすれ違いの大きな原因になったことは不幸であった。

 この点で、とくにいちばん苦しまれたのは、ルース米大使だっただろう。米側は最初、4号機の爆発は、燃料プールで大規模な燃料棒の崩落が起きていることが原因ではないかと分析していた。もしそうならば、4号機で保管中だった使用済み燃料から大量の放射性物質が放出されたに違いないと考えた。ワシントンのNRCは、その前提に基づいて80!)という避難区域を設定したのである。しかしルース大使が東京で断片的に接する情報では、そこまでひどいことにはなっていない。ルース大使はワシントンと東京のあいだで完全に板挟みになってしまったのである。

 結果的に4号機のプールについては、日本側の情報が正しく、いまだに健全性が確保されているということが、あとで判明することになった。

 いずれにせよ、私は米側の懸念を適宜、枝野官房長官や仙谷官房副長官に伝えたが、必ずしも事態の改善はみられず、歯がゆい思いもしていた。そのとき、原発対処を担当していた細野豪志・首相補佐官から、「ちょっと助けてもらえませんか」と電話をもらったことがきっかけで、3月20日、総理に直接懸念を伝える機会があり、「省庁縦割りの弊害を排して、一元的に日本側の情報を集約し、米側とそれを共有するインターフェースを官邸主導で一日も早くつくる必要がある」と進言したのであった。

 そして翌日の3月21日に準備会合が開かれ、その日の夜から日米の政策調整会議が開催されることとなった。この調整会議に、日本側は細野補佐官を中心に関係府省、自衛隊の統合幕僚監部、東京電力の幹部などが参加。米側からは米大使館公使をはじめ在日米軍やNRC、エネルギー省の幹部が参加した。そしてこの会合の下に、放射性物質の遮蔽、核燃料棒の処理、汚染水の処理、医療・生活支援などのプロジェクトチームが設けられ、日米協議を中心に日常的な作業が進められることとなった。

 私がこの調整会議に期待した効果は、主に二つあった。第一は、喫緊の課題だった日米間の意思疎遠の立て直し。第二は、各省の縦割り・平時モードの打破だった。日米協議に臨むにあたり、日本政府内の情報共有が不可欠となるからだ。じっさい、調整会議を重ねるごとに、各省間の情報の重複や混乱は大幅に整理されることになった。また、この会議には東京電力や米NRCの幹部も出席しているので、日米間の情報共有も大幅に改善されることになった。

 一つの節目は、3月28日の8回目の会議にアメリカ側からルース大使、ウォルシュ太平洋艦隊司令官、ヤツコNRC委員長が出席したことであろう。それは、その場が日本の官邸からホワイトハウスをつなぐ、日米の意思決定にとって非常に重要なものであることを示す、一つの象徴的な日となった。

60年の日米安保体制のなかで初めての協力

 米側からは、原発事故に対して、的確で真摯なアドバイスが寄せられた。アメリカにはスリーマイル島での原発事故の経験があり、また米軍は原子力潜水艦や原子力空母を日常的に運用しているので知見の蓄積がある。一方、日本にも科学的な分析の蓄積はあるものの、事故対処という点についていえば、米側のアドバイスはきわめて有益なものであった。

 しかし、だからといって、「まるでアメリカは進駐軍のようだ」との指摘は当たらない。なぜなら、日米ともこの原発事故対応をめぐっては、あくまで日本が「主」、アメリカが「従」という関係を貫くことに、とくに意を用いてきたからだ。したがって、米側からの提案やアドバイスに対し、最後は日本政府がそれを採り入れるかどうかを決断するかたちで進められてきた。たとえば米側からは、冷却水の海水から淡水への切り換えや、窒素の封入、あるいは汚染水の処理など、厳しい局面でさまざまなアドバイスがなされたが、最終的な判断は、政府と東京電力との統合対策本部でなされてきたのである。

 たとえば原発を冷却するために、自衛隊は決死的な空中からの放水を行なった。これについては「空中からの放水、機動隊、自衛隊の放水車、コンクリート圧送車と、結果的に効果の少ないものから投入した」という批判はあろうし、政府もこの批判を真摯に受け止めるべきだ。しかし、「命懸けで国民を守る」「この問題に対して、日本が主体的に責任をもつ」ということを、自衛隊が最後の切り札として示してくれたことの意味は大きい。この行動が、米側に決定的なメッセージを送ることにもなった。

 また、アメリカがシーバーフ(CBIRF:化学・生物兵器事態対処部隊)という大統領直轄の虎の子部隊を派遣してきたときもそうだ。マスメディアのなかには、CBIRFが原子炉をすべて始末してくれるかのような過剰な期待を煽る報道もあったが、実際は放射能汚染のモニタリング、除染、医療支援によって、原発作業員や周辺住民を被曝から守る役割を担う部隊だ。実際、彼らと自衛隊の特殊化学防護隊との共同訓練が横田基地で行なわれたときには、彼らは自衛隊の能力、練度、そして士気の高さに目を見張っていたという。

 すなわち、福島原発への対処にせよ、被災者の救援活動にせよ、まずは日本人が、とりわけ日本の自衛隊が先頭に立って事に当たる。そして、それをアメリカが支えるという関係を堅持することが、何より肝要である。

 それでも、同盟国アメリカの存在が日本国民に与えた安心感は、計り知れないものだった。米太平洋軍を代表して初回から調整会議に出席していた空母ニミッツ機動艦隊のロウデン司令官と交わした会話が私の耳に鮮明に残っている。今回、突然の命令でサンディエゴから派遣されることになった彼は、自宅を出るとき奥さんから「いつ帰れるの」と聞かれ、「日本の危機を解決するまで帰らない」と言い残してきたというのだ。その言葉に、私は素直に感動を覚えたし、日米の絆をあらためて実感した。

 原発事故への対処は、まさに一瞬一瞬で事態が変わっていく戦争と同じような状況である。このような実戦で、意思決定から対処行動に至るまで全面的な日米協力が行なわれたのは、60年の日米安保体制のなかで、初めてではなかったか。

 その意味では、紆余曲折を経たものの、このような協力体制が確立できたことは、これからの日米同盟にとってきわめて大きな意義があった。

いかに平時モードを有事モードに切り換えるか

 今回の経緯で、日本の危機管理体制の問題点も明らかになった。たしかに阪神淡路大震災以降、首相官邸に「危機管理センター」がつくられ、内閣危機管理監というポジションも設けられた。しかし、今回のような未曽有の複合災害にあっては、官邸主導の危機管理は「管理危機」と揶揄されるほどまったく機能しなかった。それは、国家緊急権規定を欠く憲法上の欠陥という根本的な問題はさておき、制度というより運用の問題である。器はできているものの、あくまで各省は各省中心に動くという平時モードからの切り換えがなされなかったのである。

 今回適用された災害対策基本法および原子力災害対策特別措置法によれば総理の権限は絶大で、対策本部長たる総理は全省庁のみならず、地方自治体および指定公共機関(電気、ガス、輸送、通信など)に対し、「必要な指示をすることができる」(災対法28条)。しかし実際は、危機管理センターに大勢が集まり、防災大臣や危機管理監を先頭に不眠不休で危機対処に当たり、そして各省庁が同じように不眠不休で仕事をしていたにもかかわらず、省庁間の権限は錯綜し、さらにその先の現場への指揮系統も寸断され、前述の放水作業の現場権限をめぐり、文書による指示書が出される21日まで丸3日間、現場は混乱を極めたのである。

 つまり、どんな立派な器や制度をつくっても、平時モードの各省中心のあり方のうえに、官邸の「危機管理センター」が乗っかっているだけの姿では、危機の際にはまったく通用しないのである。そこで私は、日米政策調整会議を提案したときに、併せて安全保障会議を開催し、役所の平時モードを一掃してしまうことも総理に進言した(こちらは、実現されなかったが……)。

 要は、平時に成り立った組織を、いかに速やかに有事モードに切り換えられるかである。決定的に欠けていたのは、平素の訓練だと思う。政治家も官僚も、机上のプランは論じることができても、現場感覚が欠如しているから、適切な判断が下せない。これを克服するためには、多種多様な想定のシミュレーションを行ない、訓練を重ねていくしかない。自衛隊が今回奮闘し、実績を上げることができたのは、平素から演習を繰り返し、そしてそれに基づいて計画、実行、検証のサイクルを積み重ねてきたからだ。その意味では、官邸の危機管理センターは平素から自衛隊との共同訓練、人事交流、計画策定を緊密にすべきだし、そろそろ官邸に自衛隊の将官クラスを常駐させるべきではないか。ポストをめぐり警察だ、防衛だなどと役所の権益争いを繰り返していては、また今回の轍を踏むだけだ。

常設の協議機関を新たな同盟のエンジンに

 日本側が抱えるこのような問題点が、発災当初のアメリカの苛立ちの主要な原因となったことは間違いない。しかし、危機に遭遇して日米同盟に激震が走るというのは、けっして今回が初めてではない。

 1994年の北朝鮮危機のとき、事態は「場合によってはアメリカは空爆する」というところまで切迫した。そのときに米側から「日本は何ができるのか」という問い掛けがあったのに対し、日本側からはゼロ回答だったという。有事が目の前に迫っているのに、日米同盟が機能しないという、まさに日米安保体制の根幹に関わる危機的な状況に陥ったのである。このままいったら、日米同盟は冷戦の終焉とともに崩壊することになりかねない。そこで日米の両当局者は1997年、「日米防衛協力のための指針」の見直しを行なった。

 この見直しのなかで、さまざまな項目と併せて、「日米両国政府は、双方が関心を有する国際情勢についての情報及び意見の交換を強化するとともに、緊密な協議を継続する」ことや、「日米両国の関係機関の関与を得て、日米間の調整メカニズムを平素から構築する」ことが合意された。これに基づいて、日米の合同の意思決定のメカニズムの構築や、日本側の法制度整備などが進められ、90年代後半から2000年代初頭にかけて、小泉時代を頂点とする日米協力の進化が実現したのであった。

 しかし、その「調整メカニズム」は、普天間移設と同様、いまだに大きな宿題として残されているのだ。たしかに、これまでも両国の外相・防衛相の協議の場である「日米安全保障協議委員会(通称:2プラス2)」や、審議官級の会合などが積み重ねられてきたが、これはある意味で、「何か問題が起こったら集まって協議する」というようなアドホックな位置づけであった。私は常々、NATO(北大西洋条約機構)のような常設の協議機関を日米間にもつくる必要があると主張してきたが、せっかくいま原発対処のための調整会議が機能しているのだから、これをさらに発展させていくべきではないか。

 そして、とくにこれから厳しさを増すアジア太平洋地域の安全保障環境を見据えて、新たな戦略協議の場として常設の機関を同盟のエンジンと位置づけ、そのなかで、新たな日米間の役割分担や基地再編問題も議論していく――そのような未来を、私はぜひとも描きたいと思う。

iyashi


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