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徳川綱吉はバカ殿?〜歴史の通説はウソばかり

井沢元彦(歴史作家)

2018年06月22日 公開 2022年11月09日 更新

政治システムのパラダイムシフト

もう1つ重要なことがあります。江戸時代の将軍といっても、なにしろ15人もいるわけで、その位置づけや性格も時代によって違い、一様ではありません。徳川家康は絶対君主でしたが、二代将軍秀忠の時代には、もうすでに将軍はある意味でお飾り的な存在になっています。

徳川家康は非常に歴史が分かっていた人で、自分は絶対的な君主だけれども、足利義満しかり織田信長しかり、日本史の例を見ると日本人は絶対的な権力者を嫌うので、今の体制では長続きしないことを理解していました。だから、わざわざ息子の中からある意味でいちばん無能な秀忠を後継者に選んだのだと思います。

秀忠はなんといっても、天下分け目の関ケ原の合戦のとき、上田城を守る真田昌幸・幸村父子に行く手を阻まれて合戦に遅刻するという大失態をやらかした人物です。もし家康率いる東軍が負けていたら、いったいどうなっていたか。もともと上田城はわざわざ攻め落とす必要もない城で、城攻めの軍勢を残してさっさと関ケ原に向かっていればよかったのです。

秀忠はそういった軍事的判断も全然ダメな人間でしたが、親の言うことはよく聞くという、それが唯一の取り得のような律儀な男でした。そういう律儀者を次期将軍に指名し、政権のトップに持ってきます。そして、実際の政策決定は老中の合議制にして、合議によって決まったことは、原則、将軍は裁可しなければいけないというシステムを作り上げました。

徳川将軍の政策決定これは今の日本の官僚制度とよく似ています。官僚が事務次官会議で認めたことは自動的に閣議が了承するという、本来決定権を持っているのは閣議のほうのはずなのに、下が決めたことを了承するかたちになっているのです。実は日本人というのは、平時はこのシステムがいちばん落ち着くのです。それは話し合い絶対主義だからでもあります。

しかし、合議制の支配というのは非常に打破するのが難しくもあります。だから、徳川幕府も将軍の代が重なるごとに、強固な老中合議制の上に将軍権力が乗っかっているというスタイルが固まってきます。特に四代将軍家綱などは、子供の頃に将軍になったこともあって老中合議制の、がっしりした仕組みの上に乗ったお飾りのような存在になっています。

ところが、五代将軍綱吉というのは自分のやりたい政治、理想とする政策に積極的に取り組もうとしました。政治の世界でやりたいことをやるというのは、本人に政治的力量がないと絶対にできません。

綱吉は、自ら理想とする政治を実現するために、独自のシステムを開発します。そのシステムが 「側用人(そばようにん)」 なのです。家綱の時代までの政治システムを振り返ると、だいたい老中は5人いて、その5人が合議で決めたことを将軍に上奏し、将軍はそれに対してイエスとしか言えません。

ところが、綱吉は老中たちと将軍との間に側用人というワンクッションを置いたわけです。どういうことになるかというと、側用人はあげられてきた老中合議の結果を突き返すことができたのです。つまり側用人は、「上様はそのようなことは、たぶんご裁可なさりますまい」と言って突き返すわけです。何度やってもそうなるので、結局将軍が「イエス」と言うようなことだけが側用人を通して上にあがってくることになります。ということは、実は将軍が政策遂行の主導権を握れるということなのです。

老中5人と将軍の間に側用人を挟んだだけで、これだけ違うわけです。しかも側用人というのは、将軍が自分で選ぶことができました。老中というのは有力な譜代大名から選ばれるのですが、いくら譜代大名が名門だといっても子供を老中にするわけにはいきません。そう考えると、老中に選ばれる可能性のある人物というのは、かなり限られてきます。

広く人材を求めるのと逆に、限られた大名の中から選ぶとなると、どのような結果が予想できるでしょうか。簡単に言いますと、バカ大名である可能性が非常に高いということになります。

ところが、側用人というのは将軍の裁量で選べるのですから、わざわざバカ大名を選ぶようなことはしません。綱吉が創設した側用人で最も有名なのは柳沢吉保ですが、これはもともと綱吉が将軍になる前、上野(こうずけ)の館林藩の藩主だった当時からの側近でした。

つまり側用人というのは、実は大変優れたシステムで、綱吉は、家康以来の老中合議制のシステムを将軍が自由に物事を裁量できるように変革してしまったのです。

ですから、そののちの将軍を見ていくと、自分の政治をやりたかった将軍というのは側用人を重用しています。たとえば八代将軍吉宗がいます。吉宗は名君と言われていますが、吉宗と綱吉の共通点は、自分の思い通りの政治をやったということです。老中合議制では思い通りの政治はできないのです。老中合議制というのは、あらゆる事案をそれまでの慣例に基づいて裁断するというかたちをとるので、前例のないことはできません。

前例のないことをするためには、たとえば「生類憐みの令」とか、吉宗の「足高(あしだか)の制」とか、そういう革新的な政策を断行するためには、将軍親裁をしなければならないので、側用人はどうしても必要になってきます。

ちなみに足高の制とは、吉宗が優秀な人材を抜擢するために作った、やはり革新的な制度です。江戸時代、幕府の各役職には、その役職に見合った禄高の基準がありました。つまり、若年寄には若年寄に相応しいと設定された石高以上の大名しかなれませんでした。ところがそれ以下の石高の大名にも優れた人材はいるわけで、吉宗はそうした大名を抜擢するため、ある役職に在職中だけ、足りない分の石高を増給するという制度を編み出したのです。それが足高の制です。

吉宗も側用人を使いましたが、その時代には「側用取次」という言葉を使っています。もちろん中身は側用人と同じです。ですから側用人というシステムを開発した綱吉という将軍は、実は家康に匹敵する政治の天才だったということが言えると、私は思います。どうして学者さんはそこに気づかないのか、不思議でなりません。

独裁的権力というのは、権力者がわがままな人間だったら誰でもできると思われているかもしれませんが、実はそうではありません。権力を自分の思い通りに動かすというのは、それなりの仕組みがいるのです。その仕組みというのを変えていったのが綱吉なのです。

家康以来のシステムというのは、将軍独裁ができないようになっていました。逆に言えば将軍はバカでもいいということにもなります。現に四代将軍家綱というのは子供だったけれども支障なく徳川幕府というのは動いていました。綱吉はそれを大きく変えました。だからこれは冗談でもなんでもなく、「綱吉は名君です」ということです。

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