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社会

養老孟司が危惧する「子どもの目的のない行為」を許容できない大人の貧しさ

養老孟司(解剖学者)

2023年02月03日 公開

養老孟司が危惧する「子どもの目的のない行為」を許容できない大人の貧しさ

子どもは目的のない行為を好み、熱中して取り組みます。大人は、何の意味があるのかと問いがちですが、養老孟司さんは、子どもの目的のない行為こそ「生きている」ということだと語ります。養老流ものの見方、考え方を『ものがわかるということ』からご紹介します。

※本稿は、養老孟司著『ものがわかるということ』(祥伝社)より、一部抜粋・編集したものです。

 

子どもという「かけがえのない未来」

子どもが生まれてくると、あらためてわかることがあります。子どもは何かの目的をもって生まれてくるわけではありません。

人の一生もそうです。生きる意味や目的を言いたがる人はたくさんいますが、私たちは何らかの目的のために生きてきたわけではありません。毎日、生きることに必死になっていれば、そんなことを考える余裕なんてありません。

一人ひとりの一生はなんだかわからない、理由などよくわからない一生です。子どもだって将来どうなるかわかるはずがありません。そういう当たり前のことが、都市の中に暮らしているとわからなくなります。

都市だったら設計図を書いてぱっと作ることができますが、自然相手の手入れには設計図がありません。

「ああすれば、こうなる」は人工の世界、都市の世界です。自然はそういうものではありません。ああすればこうなるほど単純なものではないと、私は思っています。それを現代社会では、徹底的に人工化していこうとする。「ああすれば、こうなる」と考えています。

すべてが予定の中に組み込まれていったときに、いったい誰が割を食うのか。それは間違いなく子どもです。子どもはなんにももっていないからです。知識もない、経験もない、お金もない、力もない、体力もない。何もない。それでは子どもがもっている財産とは何か。それこそが、いっさい何も決まっていない未来、漠然とした未来です。

その子にとって未来がよくなるか悪くなるか、それはわかりません。ともかく彼らがもっているのは、何も決まっていないという、まさにそのことです。私はそれを「かけがえのない未来」と呼びます。だから、予定を決めれば決めるほど、子どもの財産である未来は確実に減ってしまうのです。

子どもの頃、よくバケツにいっぱいカニを捕って遊んでいました。「お前それをどうするの」と言われても、別にどうするわけでもない。捕ったらあとは放すしかありません。子どもはそういう目的のない行為が大好きです。生きているとは、そういうことです。

私の家は鎌倉の警察のわきで、横丁でした。後に母から聞いたのですが、私が幼稚園から帰ってきて、横丁でしゃがんでいる。母は「何しているの」と聞く。「犬のフンがある」「犬のフンがあって、どうしたの」「虫が集まっている。虫が来ている」。そして母が聞くわけです。「こんな虫のどこが面白いの」。

どこが面白いのと言われても、本人が面白いのだから仕方ありません。こういうふうにして、人間といろいろな事や物を覚えるのです。大人は、子どもが好きなことをやっているときに、それが何のためかという無意味な質問を繰り返す動物です。私はそれを子どもの頃から知っていました。

 

子どもの身体性を育てる

動物は共鳴することを知っています。

子どもたちと一緒に、虫捕りのために山に行ったときのことです。山から下りてきたとき、とても暑かった。犬を散歩で連れてきていた人が、海岸で犬を放すと、犬は海に飛び込んでうれしそうに泳いでいました。動物と海は共鳴しています。

子どもたちもさぞかし海に入りたいだろうと思って見ていましたが、誰も海に入りません。勝手に泳いではいけないと思っている。いまの子どもは犬ほどにも幸せではないかもしれません。

江戸時代末期に日本を訪れたある外国人が、「子どもたちが幸せそうにしている」と旅行記に書いていたのを読みました。当時はたくさん子どもが生まれても死んでしまう子も多かった。あっけなく亡くなってしまう子どもを見ていたから、親は子どもの時代を存分に楽しませてやろうと思ったのでしょう。

現代は子どもがそう簡単には死ななくなり、子どもの人生は、大人になるための予備期間になってしまいました。「将来」という言葉で子どもの人生を縛って、子どもの時代を犠牲にしてしまうのです。

暑いときに冷たい水に触れると、「気持ちいい」という感覚が皮膚を通じて入ってきます。それを感じることが共鳴です。共鳴は身体や感覚で感じるものです。

いまの子どもはそういう身体の感覚を経験することが減っています。いろいろなことを体験させようと言っている人は多いのですが、どうもピンときていないように思います。

知人の﨑野隆一郎さんは、栃木県の茂木で、夏休みに「30泊31日キャンプ」というプログラムを行なっています。何もない森の中で、屋根のついた小屋だけがある。そこで子どもたちは、朝から晩まで身体を動かして暮らします。毎朝自分で水を汲み、マッチなしで火を起こさなければご飯が食べられない。トイレも階段を百段くらい上らないといけない。

キャンプ中、手取り足取り教えるようなことはしません。そこで学べる一番のことは身体性です。人間にとって、自分の身体性は最も身近な自然です。自然は思うようにならない。それを自分で理解するのです。

子ども自体が自然ですから、1日、2日で慣れていきます。日常の中に必然性が組み込まれていると、自然に親しむも何もなくて、ひとりでに親しんでしまうわけです。ボタンを押せばなんでもできる生活では、こうした身体性は育ちません。

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