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仕事

創造的な仕事は「こだわり」をなくした先に生まれる

宮本武蔵 ,渡辺誠(編訳)

2011年02月24日 公開 2022年11月14日 更新

宮本武蔵

「よろづに依怙の心なし」 こだわりをなくした先にあるものとは...

然共(しかれども)、両手に物を持事、左右共に自由には叶ひがたし。太刀を片手に取習せん為なり。鑓、長刀、大道具は是非に及ばず、刀、脇差に於ては、いづれも片手にて持道具也。太刀を両手にて持てあしき事、馬上にてあしゝ。かけ走る時あしゝ。沼、いけ、石原、さかしき道、人ごみにあしく、左に弓、鏡を持、其外何れの道具を持ても、みな片手にて太刀をつかふものなれば、両手にて太刀を構ゆる事、実の道に非ず。若(もし)片手にて打ころしがたき時は、両手にても打とむべし。手間の入る事にても有ぺからず。先(まず)片手にて太刀を振り習はん為に、二刀として太刀を片手にて振覚ゆる道也。人毎に初てとる時は、太刀おもくて振廻しがたきものなれ共、万(よろず)初てとり付時は、弓も引がたし。長刀も振りがたし。いづれも其道具々々になれては、弓も力づよくなり、太刀も振つけぬれば、道の力を得て、振よくなるなり。太刀の道と云事、はやくふるに非ず。第二水の巻にて知るべし。

【訳】しかも、両手で物を持つのは、左右の手を共に存分に振るのに、難があるものだ。そこで、太刀を片手で遣う習練をしておかせようというのである。槍や長刀といった大きな道具ならば仕方がないが、刀、脇差は、いずれも片手で持つ道具なのだ。太刀を両手で持つと、具合が悪い状況がある。馬上にあるとき、走るとき、また、沼地や湿地や小石の多い平地、険しい道、人が密集している場所では、具合悪いのである。左手に弓、槍、他の道具を持つには片手で太刀を遣うことになるから、両手で太刀を持って構えることを教えるのは、実戦の利に悖(もと)るものというほかない。もしも片手に太刀を持って相手を切り殺すことができないときは、両手を柄にかけて仕留めればよいのであって、それに手数のかかることはあるまい。だから、私の流儀では、太刀を片手で遣うことを習得させることにしているのだ。初めて片手で遣うときは、誰しも重く感じて、振り回すのに難渋するものだが、それは万事にいえることだ。初めて手にとるときは、弓にしても引くのがむずかしいし、長刀にしても振り回し難い。しかし、どのような道具でも、慣れれば、そうでなくなる。弓も力強く引けるようになる。太刀も振り慣れれば、太刀の道筋を通る効力により、振り良くなる。この「太刀の道」という、太刀は速く振るものではないという理のことは、第二巻「水の巻」で知ってもらいたい。

【解説】
世に「寛永御前試合」というものがある。三代将軍・家光の治世の寛永年間(一六二四~四四) に、時の錚々たる「剣豪」たちが将軍の御前に一堂に会し、丁々発止と剣を交えて戦った試合として伝えられている。
このようなフィクションが生まれるほどに、将軍自らが兵法に関心を深くしていたこともあって、そのころは剣術の黄金期の様相を呈していた。
そういう世にあって、武蔵が打ち出した二刀による兵法は、いかにも清新、かつ刺戟(しげき)的であった。彼の名は「二刀遣い」の呼称とともに諸侯の耳目に触れることとなり、一見するところでは奇妙に映るその剣法を、面前に披露させる大名が少なくなかったのである。
この条では、両手打ちの刀法の非合理性を様々な角度から指摘することで、その二刀遣いの合理性を論じている。そして、片手打ちに習熟しておけば、両手打ちはおのずから容易になる道理だ、と述べている。
―― コロンブスの卵
という言葉がある。
誰にも可能なことでも最初に敢行することのむずかしさをいう語だが、武蔵の二刀流発明がこのことに通じるものであることを、その論述から知ることができよう。
では、「卵を立ててみよ」といわれたとき、あとでコロンブスがしてみせたように、卵の尻をつぶして立てる発想は、いかにして生まれるのだろうか。
―― よろづに依怙(えこ)の心なし
武蔵の『独行道』(前出)の中の一条が、一つのヒントになる。「依怙」とは、今風にいうと、「こだわり」 のことである。
刀は両手で遣う道具、というこだわりを払い去ったところに、武蔵の二刀流発想のタネはあったに相違ない。
口でいうほど簡単なことではないが、すべて創造的な仕事は、こだわりをなくしたその先に生まれるようである。

 

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