1. PHPオンライン
  2. 社会
  3. アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた

社会

アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた

日高義樹(ハドソン研究所首席研究員)

2013年07月18日 公開 2022年11月02日 更新

アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた

アメリカが日本に与えた簡単に変えられない「昭和憲法」。ハドソン研究所主席研究員の日高義樹氏によると、実は昭和憲法を与えたことは、太平洋戦争の戦勝国アメリカから日本に対する報復であったという。

日本の人々は憲法を考えるにあたって、まずアメリカが太平洋戦争を自分たちに全く都合の良い形で日本国民のアタマに詰め込んだことを知らなくてはならない。

40年以上にわたって日米関係を取材してきた日高義樹氏が歴史の証人たちから得た新証言・新資料とともに、昭和憲法が日本人にとっていかに不合理であるかを語る。

※本稿は、『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』(PHP研究所)の内容を、一部抜粋・編集したものです。

 

アメリカは簡単に変えられない憲法を作った

日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)でマッカーサー司令官の副官を務めるとともに、ガバメント・セクションの部長だったビクター・ジャスティン・ウィリアムズ中佐を訪れたのは1997年11月3日のことだった。

ガバメント・セクションは日本に与える憲法を作った部局で、ウィリアムズ中佐は憲法の作成だけでなく、日本政府との折衝にあたっていた。

ウィリアムズ中佐の住まいは、フロリダ州ベニスのゴルフ場の中にあった。アメリカでは、引退した人々のコミュニティーがゴルフ場に隣接して作られていることがよくある。

ランチスタイルと呼ばれる一階建ての瀟洒な家の居間は、占領当時の日本の写真や記念品で埋まっていた。書斎の壁には、吉田茂や徳田球一といった、当時の日本の政治家が一緒に会食している写真がかかっていた。

「憲法のことを取材に来ました」と挨拶すると、ウィリアムズ中佐は即座にこう言った。

「日本の憲法は簡単には変えられない。変えることが難しいように作ったからだ」

このあと本文で詳しく述べるが、ウィリアムズ中佐が言ったのは、いま安倍政権が改正しようとしている憲法第九十六条のことである。

憲法九十六条は、国会の両院で、全議員の3分の2の同意による発議によって改正の手続きが始められ、国民投票で過半数の同意がなければ憲法を改正できないと決めている。

しかしアメリカやフランスの場合は、憲法改正の発議について複数の方法を決めており、国民投票についてもアメリカの場合は必要としておらず、フランスの場合は必ずしも必要としていない。

ウィリアムズ中佐によれば、国会の全議員が国会に出席して決議しなければならないという、常識では考えられないような案も出されたという。アメリカは日本という国を変えるために憲法を作り、日本をその憲法で厳しく縛りつけようとしたのである。

こうして作られた憲法は格調高く、平和主義の理想を貫いている。だがこの憲法が作られた当時と現在では、日本を取り巻く環境が大きく変わってしまった。

日本を守ってきたアメリカの軍事力に限界が見え始め、中国が軍事大国になり、北朝鮮までもが核兵器を持つようになった。日本は「昭和憲法」の理想では、国の存続を図ることができなくなっている。

最も重要な問題は、アメリカ軍によって作られた「昭和憲法」のもとで、政治の権力を手にしながら、軍事や外交と真剣に関わることをしなかった日本の政治家たちが、日本を動かすことができなくなっていることである。

憲法を改正するにあたって必要なのは、そうした政治体制を変えることだが、このシステムのもとで長い間、日本を動かしてきた日本の政治家たちは、自らの利権と立場を失うような改正を簡単に発議しないのではないか、と私は懸念している。

軍事力について言えば、国が滅びるような絶体絶命の危機がやってくる日まで、日本の大多数の人々は、戦争については考えずに平和な夢を見続けていたいと思っているのではないだろうか。

だが現実には、「昭和憲法」が作り出したシステムは世界の状況に合わなくなっているだけでなく、国の存続を危うくしているのだ。

 

「昭和憲法」という戦勝国アメリカの"報復"

日本の現在のシステムの基本になっている憲法を与えるとともに、その憲法を変えることを難しくしたのはアメリカだが、平和主義の理想を貫くその憲法の背後に潜んでいるのは、戦勝国による"報復"である。

アメリカの言う侵略戦争に日本が敗れたという前提があり、日本は報復を受けたのである。

アメリカをはじめとする戦勝国は、日本が始めた戦争を、「領土拡大のための侵略戦争であった」と決めつけた。このため上官の命令に従っただけの下級士官までが、BC級戦犯という名のもとに処罰され、指導者は平和に対する罪という名のもとに処刑された。

ソビエトはさらに直接的な報復を行った。日露戦争の仕返しとして樺太や千島を奪い、満州や朝鮮も取り上げようとした。そのうえ日本のシベリア出兵に対する罰として、北海道を占領すると主張し、ワシントンで開かれた戦勝国代表による極東委員会の席上、北海道の分割を要求した。

ソビエトはさらにポツダム宣言の規定に違反して100万人以上の日本兵をシベリアの収容所に送り、重労働を課した。アメリカ側の記録では、過酷な環境のもとで30万人以上が死亡した。

アメリカは表面的には、日本を平和国家にするために、平和主義の理想のもとに憲法を作ったことになっているが、「昭和憲法」もやはり日本に対する"報復"の1つだった。

アメリカは憲法を作成すると同時に、オペレーション・ブラックリストによって、戦争に関わった日本の指導者をすべて追放し、天皇陛下だけを残して、その周囲をアメリカに近い平和主義者と入れ替えた。

日本と同じように、第二次世界大戦に敗れたドイツに対して戦勝国は、"報復"という言葉を直接的に使った。ドイツは民族の優秀性を主張したために処罰された。もともとドイツ固有の領土であった東部のプロシアがポーランドとして分割された。

ドイツ民族の中心であったユンカーの故郷が滅ぼされてしまったのである。日本に対しては、"報復"という言葉は使われなかったが、「昭和憲法」というのは、アメリカが侵略だったと主張する日本の戦争に対する"報復"であると見るのが正しい。

ルーズベルト大統領は、宣戦布告なしの真珠湾奇襲攻撃に憤激して太平洋戦争を始めたとされているが、歴史的に見れば、この戦争の発端はそれほど単純なことではない。

1940年9月から41年8月にかけて、ルーズベルト大統領は日本に対する原油や屑鉄の輸出禁止令を決定した。日本の命綱を断つ、宣戦布告に等しい行動だった。

ルーズベルト大統領は、日本が報復としてフィリピンを攻撃するのではないかと恐れた。

このため7月26日、フィリピンにいたマッカーサー将軍に対して緊急警戒措置をとるよう命ずるとともに同日、国防総省に対して、最新鋭のB17長距離爆撃機272機とP40戦闘機130機を、フィリピンに派遣するよう命じた。

この命令を見ても、ルーズベルト大統領が戦争の準備をしていたのは明らかである。だがルーズベルト大統領は、日本からはるか離れたハワイの真珠湾を攻撃されるとは思っていなかった。

戦争では、どちらが先に手を出したかを公正に見るのは難しいが、1941年12月8日の真珠湾攻撃以前から、日本とアメリカは戦争に至る宿命の対決を開始していたのである。

 

次のページ
「昭和憲法」は歴史の流れを堰き止めてきた

関連記事

×