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アメリカは変えにくい憲法を日本に与えた

日高義樹(ハドソン研究所首席研究員)

2013年07月18日 公開 2022年11月02日 更新

「昭和憲法」は歴史の流れを堰き止めてきた

日本の憲法を書き直すにあたっては、まずこうした歴史の流れを見なければならない。

日本とアメリカの関係を、歴史という大きな流れのなかで捉え、日本の憲法がいかに作られたか、なぜアメリカが変えることの困難な憲法を作ったかを考察しなければならない。

「歴史には区切りがない。歴史をたどれば、どこまでも続いていく」

私がこの30年間、20数回にわたってインタビューした、歴史学者で戦略の大家であるヘンリー・キッシンジャー博士がこう言っている。中国の思想家である孔子も同じことを言った。

弟子が残した書物によると、孔子は川のほとりに立ち、「人の世はこの川の流れのようにいつも流れている」と言ったとされている。人の世というのは、つまり歴史のことである。

日本の人々は、日本が「大東亜戦争」と呼び、アメリカが「太平洋戦争」と呼んだ戦いに敗れて以来、世の中がすっかり変わってしまったと思っている。歴史の大きな川の中に堰を作り、それ以前とそれ以降に分けて考えている。その堰というのが「昭和憲法」である。

日本の人々は、この憲法以前のことをすべて忘れるか、考えなくなっている。あらゆることをこの憲法に基づいて判断するようになっているが、いまや川の流れが大きく激しくなって、憲法が堰として役に立たなくなっている。

昭和憲法という堰は、そもそも人類の歴史から見れば、急場しのぎの、長くは持たない堰だったのである。

「昭和憲法」は、アメリカが「太平洋戦争」と呼ぶ戦いに勝ち、敗者である日本を徹底的に押さえつけるために作り、日本に与えたものである。日本はこの憲法のもとでアメリカの軍事力の庇護を受け、経済活動に邁進し強大な経済力を持つ国になった。

だが太平洋戦争に勝ったあと、世界を動かしてきたアメリカの力は枯渇しかかっている。「昭和憲法」の堰は、もはや歴史の流れを堰き止めることができなくなっている。

 

40年以上の取材で見えてきた「昭和憲法」の不合理

私は1969年に初めてNHKのワシントン特派員になり、翌70年に「日本の戦後」というNHK特集の番組制作の一員に加わった。

このときホワイトハウスを担当していた私は、日本分割を話し合った舞台が、ホワイトハウス本館の西にあるイグザクティブ・ビルの2階南西の角にある会議室であることを見つけた。

残された資料によれば、この部屋でアメリカ、イギリス、ソビエトなど戦勝国の代表によって構成された極東委員会が、日本分割について話し合った。結局は現地司令官だったマッカーサー将軍(元帥。以下同)の強い要求もあり、日本分割は行われないことに決まった。

同じとき、日本占領軍の行動について詳しく書いた『ニッポン日記』の著者であるカナダのジャーナリスト、マーク・ゲインを見つけ出して、トロントまで飛び、農地解放や財閥解体の話を聞いた。

その後も私は、日本とアメリカの問題を取材し続けた。マッカーサー司令部のスタッフで「昭和憲法」を作った人々を探し出して話を聞いた。

マッカーサーの秘密諜報機関、通称キャノン機関の長で「マッカーサーのお庭番」といわれたジャック・キャノン中佐をテキサスに訪ね、長時間にわたって話を聞いた。

ルーズベルト大統領の友人として、アメリカ外交、とくにソビエトとの関係を切り盛りしたウイリアム・アヴェレル・ハリマン大統領顧問とも会って、当時の話を聞いた。ハリマン大統領顧問は、戦後日本の命運を決めたポツダム首脳会談の、実質的な責任者だった。

日本の経済については、マッカーサー司令部で経済問題を担当したマーカット准将のもとで日本企業の相談役を務めたピーター・ドラッカー博士が、私とのテレビインタビューに応じてくれた。

キッシンジャー元国務長官やシュレジンジャー元国防長官、さらにはカーター政権のプレジンスキー安全保障担当補佐官などからも、日本とアメリカの関係について話を聞いた。

こうして私は40年以上にわたって日米関係を取材してきているが、日本とアメリカの関係は、日本が戦いに負けて与えられた昭和憲法から始まったわけではない。いわんや、憲法が作られるもとになった、太平洋戦争が始まりというわけでもない。

日本の人々は憲法を考えるにあたって、まずアメリカが、太平洋戦争をまったく自分たちに都合の良い形で日本国民のアタマに詰め込んだことを知らなくてはならない。

日本にとって大東亜戦争は、近代国家として生きるための資源や市場を求めての経済戦争であった。だがアメリカはこの事実を全面的に否定し、「他民族を圧迫する侵略戦争である」と決めつけたのである。

アメリカと日本の対立は、地政学的に見れば宿命的とも言えるもので、歴史の当然の成り行きだった。ヨーロッパから独立したアメリカは、両隣がカナダとメキシコというきわめて弱く脅威にならない国であったこともあり、自然、国力の拡大を太平洋に向けることになった。

1875年、砂糖についての関税特別協定を結び、1893年には海兵隊を送り込んで内戦に介入し、ハワイを我がものにしたアメリカは、南太平洋の島々を領土にして、ついに1898年、フィリピンを侵略した。その後フィリピンを守るために日本との戦争を想定したオレンジプランを作成した。

日本もまた、明治維新が終わり、日清戦争と日露戦争に勝った後、資源を求めて南方に勢力を向け始めた。だが、すでにアジアは西欧諸国に蹂躙されて、ほとんどの国が植民地になっていた。

アメリカはこうした事実をすべて無視して、日本の進出を侵略戦争だったと主張し、アメリカが戦いに勝ったために、その主張がそのまま歴史になってしまった。

勝者が歴史を書くという常識から言えば当然の結果であるが、いま憲法を見直すにあたっては、こうした歴史を無視するわけにはいかない。

私はキッシンジャー博士や孔子の言葉を持ち出して、歴史は大きな川のように流れるものであると述べたが、日本の人々は半世紀以上にわたって昭和憲法を、歴史という川の流れの堰にしてきた。だが歴史を区切ることはできないし、区切ってもならない。

私は本書『アメリカが日本に「昭和憲法」を与えた真相』の中で、昭和憲法を日本人に長い間受け入れさせる結果になった4年間の戦いが歴史の中の1コマに過ぎないこと、

その戦いに勝った国が憲法の名のもとに新しい国をつくるという行為がいかに不合理なものであったか、を示したいと考えている。

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