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社会

原爆誕生の地で振り返る「長崎の悲劇」

下村脩(米ボストン大学名誉教授)

2013年08月19日 公開 2022年12月21日 更新

広島・長崎は歴史のひとかけらにすぎないのか

 まず、所長代理ダンカン・マックブランチ博士によるロスアラモス国立研究所の説明を受けた。1942年、極秘で原子爆弾をつくるためのマンハッタン計画でオッペンハイマー博士がこの地を選び、以前からあったサマースクールを買収して研究所を開設した。最初の所員は200人くらいであった。当時の写真を見ると、科学者たちはかまぼこ型兵舎に住んでいて、外側に洗濯物がたくさん乾してある。最高の頭脳を集めたとはいえ、このような不便な、しかも隔離された環境で、約2年間で原子爆弾を完成させたのであるから驚異的な努力である。

 外界との連絡にはサンタフェ郵便局の私書箱を使っていたというが、当時の道路ではロスアラモスからたぶん片道2時間くらいかかったであろう。大学や高等研究所があるニュージャージー州プリンストンでは、物理学者たちがニューメキシコ行きの切符を買うときには、秘密保持のためプリンストンでなく周辺の駅で買うように指示されていた。しかし、彼らは荷物をすべてプリンストンの駅から発送したので、駅員が訝っていたという話もある。有名な物理学者リチャード・ファインマンは結核を患っていた妻を車で数時間かかるアルバカーキーの療養所に入れ、毎週ロスアラモスから見舞っていたという。彼はその見舞いの途中、現代では考えられないことだが、しばしばパンクして苦労したと自伝に書いている。

 ロスアラモス国立研究所の現在の所員数は1万人強で、兵器の研究もしているが、大部分の科学者は生物科学、化学、癌や結核の治療薬、科学理論の研究などに従事しているとのことである。私が発見した緑色蛍光たんぱく質も広く使われている。

 次いで各研究部門(兵器を除く)代表の科学者たちと昼食をとった。そのとき私が質問してみた。「皆さんが行なっておられる研究は全部、平和的な基礎科学の研究のようですが、なぜこのようなハイセキュリティーが要るのですか?」。私は科学の進歩には遊び心やいたずら心も大事で、ハイセキュリティーの環境は邪魔になると思ったのである。

 答えは「要りません」であった。「それでは基礎科学を兵器部門から分離したらどうですか」といってみたが、返事はなかった。どうも、兵器部門に潤沢な研究費があり、それが基礎科学部門を間接的にサポートしている感じを受けた。

 なお、米国にはもう1つ兵器の研究をしている大きな国立研究所がある。それはカリフォルニア州のローレンス・リヴァモア国立研究所である。

 午後1時から私の講演が始まった。演題は「緑色蛍光たんぱく質の発見は予想していなかった」で、内容は私のノーベル賞受賞講演とほとんど同じであるが、発見の過程には少なくとも分かれ道が7回あり、その一つでも違った道を選んでいたら緑色蛍光たんぱく質は発見されなかったはずである。発見されたのは奇跡に近いと結論した。その分かれ道の一つは1965年に、私が安定した名古屋大学助教授の地位を捨てて、研究費獲得の困難さを承知のうえで発光たんぱく質イクオリンの発光機構を解明するために再渡米したことである。また、イクオリンの精製中に見つけた微量の緑色蛍光たんぱく質を不純物として捨てずに、それを研究したのもその1つである。

 なお現在、生物発光学者としての私が存在するのは化学の道を選んだからであるが、それには長崎に落ちた原爆が少なからず影響している。というのは、私は終戦後、入れてくれる学校が見つからなかったので、2年半のあいだ浪人していた。ところが、原爆で破壊された長崎医科大学附属薬学専門部が仮校舎を諌早の私の家の近くに開設したので、そこに入学することができたのである。私は薬学にはあまり興味がなかったが、薬学の本質は化学であるので、化学の道を進むことになった。

 講演後、車いすに乗った生物科学部門のジオフ・ワルドォ博士と会う。彼は分裂緑色蛍光たんぱく質を研究し、その応用に関する多くの特許をもっている。彼の言によると、緑色蛍光たんぱく質の応用と利用は、彼が研究を始めてから「津波」のような強さと速さで世界中に広がったのだそうだ。

 次いで、ピアーソン博士の理論科学部門の科学者たちに会った。夕食は数人の科学者とともに、町でいちばんよいレストランであるというディキシーガールに招待されたが、騒音がひどくて話が聞き取れず難儀した。

 翌日は朝10時から2時間、若い科学者たち、大学院生とポストドクターの質問に答えた。あまり鋭い質問はなかったように思う。たとえば、クラゲの傘の縁にある発光器を切り取ったあと、そのクラゲはどうなるか、またノーベル賞受賞の電話がストックホルムからかかったときの気持ちはどうであったかなどである。原爆に関する質問はまったくなかった。若い人にとって広島・長崎の原爆は歴史のひとかけらにすぎないのであろう。

 

「俺たち科学者は皆、くそ野郎だ!」

 それで公式行事は終わり、昼食後ブラドベリー科学博物館を見学する。1963年にロスアラモス国立研究所2代目所長のブラドベリー博士によって創設された原爆関係資料専門の博物館である。

 長崎に落ちたファットマンは広島に落ちたリトルボーイよりはるかに大きい(文末写真参照)。どちらも実物大モデルが陳列してあったが、ファットマンの大きさなら10km以上離れたところからでも見えたと思う。

 私はあの日(1945年8月9日)、最初のB―29がパラシュートを落としたのを見た。爆発データの測定送信用だったのである。次に来たB―29が長崎上空に達したとき私は工場の建物に戻り、私が作業椅子に座った途端、強烈な閃光に襲われたのである。もし長崎の空を見続けていたら、私は失明したかもしれない。

 私が68年前に遠くに見たパラシュートの見本も陳列してあり、目前に見ることができた。原子爆弾の起爆機構を、何の秘密もないかのように詳細に説明してあった。材料さえ調えば簡単にできそうで、ちょっと恐ろしく感じた。私はブラドベリー科学博物館で原爆の詳細な展示を見て、心の中のもやもやしたものが、ほんの少し薄らいだように感じた。

 広島に原爆を落とした3日後に長崎に原爆を落としたトルーマン大統領の写真を見て、案内してくれたピアーソン博士に私は彼が大嫌いだといった。3日間ではまだ効果がはっきりしていなかったとの意味である。

 彼はすぐ私の言葉の意味を理解したが、ロスアラモスの科学者は皆、原爆を実際に使うことに反対であったこと、そしてトルーマン大統領はロシアが参戦して日本を占領するのを恐れ、日本の降伏を早めるために2つ目の原爆を使ったのだといった。ウラニウム使用のリトルボーイは起爆装置が比較的に簡単で、爆発することが確実と考えられていたので事前のテストは行なわれなかった。

 しかし、プルトニウム使用のファットマンのほうは起爆テストが1945年7月16日にニューメキシコ州南部(トリニティーサイト)で行なわれた。想像以上のすさまじい爆発結果にショックを受けたテスト責任者ケネス・ベインブリッジ博士はオッペンハイマー博士に「ちくしょう! 俺たちは皆(とんでもないものをつくった)、くそ野郎だ!」といったという。

 私は最初の広島での原爆使用は強く非難できないと思う――。もし日本が原爆をもっていたらたぶん使用したであろうから。もし日本が2週間でも早く降伏していたら、多数の人命が失われずに済んだはずであり、この点、非常に残念である。

 しかし、すべては戦争に起因する。戦争のない世界を望むのみである。


写真左はリトルボーイと筆者、右はファットマンと筆者、明美夫人
リトルボーイと比べるとファットマンの大きさがよくわかる

著者紹介

下村脩(しもむら・おさむ)

米ボストン大学名誉教授

1928年、京都府生まれ。長崎医科大学附属薬学専門部(現・長崎大学薬学部)卒。理学博士(名古屋大学)。名古屋大学助教授、プリンストン大学上席研究員、ボストン大学客員教授、ウッズホール海洋生物学研究所上席研究員を経て、現職。2008年、緑色蛍光タンパク質の発見と開発の功績により、ノーベル化学賞を受賞。
著書に、『クラゲに学ぶ』(長崎文献社)、『クラゲの光に魅せられて』(朝日選書)などがある。

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