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『日暮硯』を読み解く~松代藩家老・恩田木工に学ぶ「人の動かし方」

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2013年11月08日 公開 2023年01月05日 更新

【新訳】日暮硯』より
 

『日暮硯』と恩田木工

『日暮硯』は、真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親(おんだもくたみちか)の業績を記したものである。

 江戸時代、この『日暮硯』は、改革の成功物語として全国にその写本が流布し、武士だけでなく庶民にまで広く愛読された。

 まさに、藩政改革のマニュアルと呼べるものなのである。

 恩田木工は、享保2年(1717)に恩田民清の子として生まれた。恩田家は、松代藩の家老の家柄であった。木工も宝暦4年(1754)、30代後半の若さで家老職に任じられている。この時期の松代藩は、度重なる幕府からの課役や水害など天災のために莫大な出費を強いられ、土地も荒廃してしまっていた。

 このため前藩主・真田信安は、断固たる決意をもって藩政改革を断行しょうとしたが、担当者の原八郎五郎、さらには田村半右衛門が立て続けに領民や足軽たちの強い抵抗を受けて失脚、改革は無残な失敗に終わっていた。結果、幕府に莫大な借金をしたものの、松代藩は完全に立ち行かない状況に陥ってしまっていた。

 ここにおいて、まだ10代だった藩主・幸弘は、有能だと噂の高かった恩田木工を抜擢し、彼に藩政改革を命じたのである。

 2度続けて失敗している改革、今度がまさに3度目の正直といえた。改革を実行するのがいかに厳しいかは、担当になった木工自身が一番よく知っていた。

 ゆえに木工はまず、大きな2つの決断を下した。

 「ウソをつかないこと」「いったん命じたことは、決して撤回しないこと」である。そして、この2つを貫徹するために命を捨てる覚悟を決め、改革の足手まといとなる家族や家来を義絶しようとしたのである。

 大きな仕事を成功させるためには、それくらいの決意が必要だということだろう。

 改革にあたって木工は、諸役人だけでなく、領民すべてに自分の政策を事細かに説明し、彼らの同意を取りつけている。木工が大切にしたのは「信」であった。自分に対する信頼がなければ、人々はついてこないと考えたのだ。ゆえに異例ながら、こうした措置をとり、同時に自分は粗食に甘んじ、その身を強く律したのだった。

 こうしてはじまった松代藩の宝暦改革であったが、他藩のそれとは大いに様相が異なった。ふつう改革といえば、徹底的な倹約を領内に命じ、農民への増税や武士への給与カットで財政を再建するのが一般的であった。

 ところが木工は、一切増税はせず、逆に農民への諸役を廃止し、「今後は年貢の先約や上納金は求めない」と約束、「役人に対する不満を書面にしたためて差し出せ」と申し渡したのである。農民たちは狂喜し、瞬時に彼らをしてみずから改革に協力させる体制をつくり上げることに成功したのだった。

 さらに驚くべきは、不正を告発され戦々恐々としている悪徳役人たちを自分の同志としたことだろう。罪を許されたことに大いに感謝した彼らは、以後、木工の忠実な手足となって改革に尽力していくことになった。

 いかにすれば部下は動き、仕事が成功するのか――。江戸時代に記されたものでありながら、この本にはそうした処世術が数多く含まれている。きっとこれを一読することで、あなたの生き方は大きく変わるであろう。

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