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生き方

「なぜ人を殺してはいけないのか」の意外な理由

小浜逸郎(批評家)

2015年02月26日 公開 2023年01月12日 更新

 

一見、大人をギクリとさせる問い

「なぜ人を殺してはいけないのか」──この問いに対して当時出されたどの答え方も、本当には満足のいくものと思えなかった。一見いい答えになっているように見えながら、不十分と感じられる例を2・3、挙げて、どこが不十分なのかを検討してみよう。

●「君は殺されたくないだろう、また君の愛する人を殺されたら君は怒り悲しむだろう。だから君も人を殺してはいけないのだ」──しかし、自分が殺されたくなかったり、自分の愛する人を殺されたくないと思う気持ちと、自分の憎む人を殺したいと思う気持ちとは、現実には矛盾なく両立しうる。

さらに言うなら、たとえば敵が襲ってきた場合のように、自分が殺されたくなかったり、愛する人を殺されたくないからこそ、人を殺さなくてはならない、殺したほうがよいという場合さえある。

なお、平和時をいいことに「自分は人を殺すよりは自分が殺されたほうがましだと思う人間だ」などと広言する人を時折見かけるが、想像力の欠落した、偽善的な物言いだと思う。

人は一般に、殺意が何らかの意味によって支持されていて、相手に対して特別の思い入れを持たず、しかも殺すか殺されるかどちらかを選ばなくてはならない時には、殺されるよりは殺すほうを選ぶものだと思う。このことは、むしろ当然と言える。無理心中などでも、相手を殺して、自分が死にきれずに自首するなどという例が多い。

●「人を殺すと、それまで作ってきた自分が壊れるからだ」──この答えは、「自分」を特定の関係に深く根拠づけられている存在と考える限りでは、論理的に正しい。しかし必ずそうなるとは言い切れないのであって、「自分」を構成している関係とは無縁な他者を殺害する場合には通用しない。

「自分」を壊さずに人を殺せる人はけっこういるのである。この答えは、人間全体を性善説でとらえすぎている傾向があって、実際に人を殺したら「自分」が本質的に壊れてしまうような歓迎すべき良心の持ち主に対してしか効力を持たない。

どんな状況下でも人を殺してはならないという道徳心が、その人の「自分」を構成する無意識の大きな要素となっている人に対しては、この答えは、「なるほどそうだ」という納得をもたらすかもしれない。しかし、親鸞が見抜いたとおり、「わが心のよくて殺さぬにはあらず」、人はある状況下では、「自分」など壊さずに人を殺すことがありうる。

もちろん多くの場合において、後味の悪さを深く引きずるだろうが、それとても環境条件を変え、その中で生き続けてさえいれば、時間の経過とともに自然に感情が平らかになっていく。人間は浅ましいもので、初めの生々しい罪悪感をそっくりそのまま持続することは難しいのである。

このように考えてくると、「人を殺すと、それまで作ってきた自分が壊れるからだ」という答えからは、人間社会が殺人行為に「罰」を科してきた理由が導き出せないことがわかる。

というのも、人を殺せば誰でも「自分」が自動的に壊れて、回復不能になるなら(つまり、殺人を犯した当人を、あれはああやって「自分」を壊してしまったのだと周りが認めるなら)、殺したことでその人は十分に罰を受けていることになり、外から改めて罰を科す必要はないからである。

もちろんドストエフスキー著『罪と罰』(新潮文庫)のラスコーリニコフのように、実際にやってみてしまった結果、それまで自分を作っていた誇りやプライドや信念が崩壊して、自分を救われるに値しない人間であると考えることは大いにありうる。それはそれで、取り返しのつかないことをした者がそうした運命を引き受けることとして深い文学的な意味がある。

しかし、それは、やってしまったからこそ初めて生じた実存の状態である。殺人者が事後にある特有の実存的な状態に落ち込むからといって、そのことは、あらかじめ「だから人を殺してはならないのだ」と決める理由にはならない。

事態はじつは逆であって、人々の中に「人を殺してはならない」という掟の観念が深く根を張っているからこそ、殺人を行ったときに多くの人が自己崩壊の状態を経験するのである。

●「むしろ、人は人を殺せないのである。迫ってくる他者の目の向こうに自分と同じ人間主体を認めるならば、そのことによってだけでも、殺意はひるむだろう。人が人を殺せるのは、相手を人間と思わない時に限るのだ」──この答えにも甘さがつきまとっている。というよりも、これでは、肝心の問いに少しも答えたことになっていない。

たしかに戦争における殺戮のように、「相手を人間と見なさない」ことは、殺人を容易にする。しかし怨恨殺のように、むしろ相手の「人間主体」を濃厚に感じ取るがゆえにこそ殺すことがいくらでもありうる。

またたとえこの説のとおり現実の殺人の多くが仮に「相手を人間と思っていないからこそできる」のだとしても、実際には現に「人間」を殺しているのであるから、そういう多くのケースについてこそ、「なぜ殺してはいけないのか」という倫理問題をかぶせる必要がある。

人は本当は、人を「人間」としては殺せないはずだなどという希望的観測に逃げ込むならば、倫理とか掟といった「強制性」のある概念を人間がなぜ手にしているかが理解できなくなってしまう。

 

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