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生き方

「なぜ人を殺してはいけないのか」の意外な理由

小浜逸郎(批評家)

2015年02月26日 公開 2023年01月12日 更新

 

なぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか 

人はなぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか。人は人を殺すのである。怒り、憎しみ、嫉妬などの個人感情の高揚や、金銭欲や、国家の命令や、正義の理念や、自己保身や、耐え難い圧力の排除や、権力抗争や、荒ぶる攻撃本能の発露そのもの、また、残酷な趣味、冷ややかな好奇心によってさえ。それらの現実が現実としてあることそのものは、「いけないこと」もヘチマもない。まずそう考えておかなくてはならない。

正当な殺人と許されない殺人とが初めからあったのではない。あったのは、さまざまに条件づけられたさまざまな殺人だけである。だがある理由から、人は、それらの殺人を「正当」なものと「許されない」ものとに腑分けするという着想を得た。何が人間をして、そのような着想に至らせたのだろうか。

それは、ひとことで言うなら、共同体の成員にとっての共通利害である。一共同体の成員にとって共通利害に適うと見なされることは、たとえ殺人であろうと「正当なもの」とされ、それどころか、たとえば他の部族との戦争のように、時によっては積極的に推奨されさえした。

これに対して、その殺人が、共同体全体の実質的な、および象徴的な力を削ぐものと感じられた場合には、「許されないもの」とされたのである。

共同体は、その権威の永続性を自らに保証するために、個々のいかなる成員をも超越した観念的な権威、すなわち「神」や「祖霊」のような宗教的な表象を創造した。

「正当なもの」と「許されないもの」との区別は、この共同体全体によって祭られた神の託宣をとおしてなされ、すべての成員は──とくに権威ある者、すなわち「神」により近い者は率先して──これに服さなければならなかった。ユダヤ教においてモーセが果たしたといわれる「ヤハウェとイスラエル人との契約」などは、その最も端的な例である。

「神」や「祖霊」などの宗教的な表象は、もともと個人の倫理的心情を支える存在として一人ひとりの内面に存在したのではなく、共同体の秩序と成員の日々の生活を守る柱として打ち立てられた集合的な表象である。

それはいったん建てられると、聖なる権威として君臨し、各人は、この集合的な表象の権威との関係において、自らの行為の価値を測ったのである。かつて個人と共同体とは、私たちが今そうであるほど互いに独立していず、もっと融合しており、共同体の運命がそのままその成員の運命を左右した。

だから初めに純粋倫理とか、良心それ自体といったものがあったのではない。成員の心理として現実的だったのは、ある行為(たとえばある殺人)が、共同体の成員として適格な行為であるかどうか、それをなせば共同体全体の共通利害に反しないかどうか、聖なる権威を汚すがゆえに追放されてしまわないかどうかにかかわる「不安」であって、ある行為がそれ自体として「良心」という個人の心的な構築物に適うかどうかということではなかった。

現に、古代の神話的記述、たとえばわが国の『古事記』(岩波書店「日本古典文学大系」)やキリスト教の聖書などは、いたるところ殺害の物語で満たされている。それらは、ただ神聖な事実の記録にすぎず、けっして良心に反する行為として銘記されているものではない。

このように、共同体の秩序を保とうとする意識こそが、人々の行為の結果のよしあしを決する鍵を握っていた。たとえば、「謀反」や「反逆」は、伝統的権威を打ち倒す行為であり、共同体の既成の秩序が信じられている限りにおいて、この不安を最もかき立てる行為であるから、禁を犯す勇気を最も必要とした。

そしてそれが実際に諮られて失敗した時には、秩序を乱すものはこうなるとばかりに、見せしめのための残虐な刑が執行されたであろう。また成功して政権が移った時には、一時的に秩序が攪乱させられたことによる民衆の不安をなだめ、秩序が再建されたことを納得してもらうために、穢れを打ち払う大きな禊の儀式が必要とされたであろう。

また、私的な関係の葛藤から生ずる殺人は、無限の報復の可能性を生み、それは秩序の内的な混乱と、共同体全体の力の減衰に帰着する。そこで、それを防止する何らかの知恵が必要とされた。その知恵とは、超越者がこれを裁き、それによって、実行者がどんな罰に値するかを人々の意識にたたき込むことである。

以上のことからわかるのは、殺人などにかかわる「良心」とは、個人の心の中に先験的に存在したのではなく、共同体から見放される不安と、また実際に他の成員がなした秩序破りの経験とが人々の意識のうちに負の記憶として蓄積され、徐々にできあがっていった心の構えだということである。

秩序の混乱や復讐の反復や権力者による見せしめの恐怖が、人々をして共同体全体の滅亡を予感させ、その恐怖に身をすくませる感覚が、やがて「むやみに殺人をなさないこと=よいこと」という倫理的な共通了解に発展していったのである。

ひとたびそうした共通了解が確立されると、それはあたかも初めから人間の心のうちに存在したプリンシプルであるかのように機能する。人は、いったん普遍性を獲得した原理の前では、その成立過程の痕跡を消そうとするからである。

このように考えなければ、人々が歴史上、共同体の承認が得られることが確実に思えるような条件下では進んで「殺人」をなし(たとえば戦争や、逆臣の粛清)、孤立や放逐や刑罰が予想されるような性格の「殺人」に限ってとくに「良心」の機能を強く働かせてきた理由が説明できない。いかなる「殺人」も無条件で悪と考える「良心」が初めから存在したのであれば、どんな英雄神話も成り立たないことになる。

 

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