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生き方

「なぜ人を殺してはいけないのか」の意外な理由

小浜逸郎(批評家)

2015年02月26日 公開 2023年01月12日 更新

 

なぜ不十分なのか

これらの答えは、それなりに当を得ているように見えながら、なぜ不十分なところを持つのか。それには2つの理由があると思う。

1つは、これらの答えがみな、疑問を持つ主体の「内面心理」の部分だけに狙いを定めて、そこから納得を引き出そうともくろんでいる点である。こういう答えの出し方には、相手に対してある暗黙の設定を共有することが期待されている。

その設定とは、「もしあなたや私が人を殺す羽目になってしまったらあなたや私はどう感じるだろうか」という問いの範囲内でのみ答えを模索しようとしていることである。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの意味を、そのような心理的な枠組みの中に封じ込んでしまっている。

だからこれらの答え方は、初めからそれぞれの人の「良心」に訴えているのである。この問答は、「良心」が問いかけ、「良心」が答え、それをまた「良心」が受け止めるという構造になっている。

ところが、この問いを本質的に考えるなら、それはそもそも「良心」のやり取りの範囲をはみ出す部分を持っていることに気づくはずである。つまり、この問いには、本当は「人間の世の中では、なぜ人を殺してはならないことになっているのか」という問いも、可能性として含まれている。

もし問いのこの部分に着目すれば、この問いが倫理道徳の根拠や系譜そのものを問うているのに、問答としては、すでに倫理感情のできあがった人だけを期待してやり取りがなされている、その限界が見えたはずである。

もちろん私たちは常識的に、「汝、殺すべからず」という掟を承認し、それに伴う道徳的な理性や感情を共有している。無残な殺人が行われれば、自分に直接関係がなくても大なり小なり眉をしかめたり義憤を感じたりするであろう。

これはたぶん、問いを出した若者自身とて同じだと思う。しかし、もしこの問いが、道徳的な理性や感情の根拠それ自体を問うていると見なされるなら、その共有されている理性や感情は、「括弧に入れられる」べきなのだ。言い換えると、互いの良心のありどころそのものの由来を問わないようなやり取りの構造をいったん壊すべきなのだ。

このことが、もう1つの理由と結びついている。上記のようないくつかの答えが不満に感じられる第2の理由は、それらが問いそのものを直接に引き受けてしまっているために、問い方に対して疑いを抱いていない点である。

それはおそらく「何で人を殺しちゃいけないんですか」と聞かれた応答者がショックを感じたからである。応答者は、この問いに対して「いけないからいけないんだ!」とつっぱねずに誠実に答えるべきだと思ったにちがいない。しかし、それは一種の「善意」に金縛りになっていることを意味する。

言い換えると、倫理の「当たり前」が、若い世代に当たり前として感じられていない事態にうろたえているのである。そのために、答える姿勢そのものが、「いけない」理由を一生懸命説教的にあれこれ考えて、思わず穿たれた穴を何とか埋めようという意識に固定されてしまっている。問いの形に拘束されているために、結局「いけない」ことそのものは疑われていないのである。

だがすでに述べたように、この問いはもともと、倫理そのものの根拠と系譜(なぜ人間は自らに掟を課すようになったか、どうして攻撃性の発揮のあとに罪悪の意識や良心のやましさを抱くようになったのか)を問題にしようとする傾向を、萌芽的に含んでいる。

そのことをはっきりさせるためには、この問い方が一方で求めているような「説教」的な枠組みの外に出なくてはならない。この問いが持っているあいまいな二重性を捨てて、別の問い方に言い直したほうがいい。そこで、次のように問うのが適切である。人はなぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか。

このように言い直すことで、歴史上、人類が限りなく人を殺してきた冷厳な現実をそのものとして問いの中に繰り込み、その事実との相対的な関係において倫理の根拠と系譜とを考えるきっかけが生まれる。

「なぜ人を殺してはならないのか」という問いの直接的な期待の部分にとどまる限りでは、現実に人が殺人を繰り返してきたこと自体をどう考えるのかという問題をはっきり俎上に載せることができないのである。

 

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