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平清盛出生の謎と京都・八坂神社の関係とは

河合敦(歴史作家/多摩大学客員教授)

2015年07月27日 公開 2023年01月05日 更新

 

清盛のトラウマとなった祇園社乱闘事件

 ところが、そんな清盛の未来を暗転させるような事件が、八坂神社(祇園社)で起こってしまうのである。

 久安3年(1147)、清盛は30歳になり、この年、後の平氏の総帥となる三男宗盛が生まれている。前年には正四位下までのぼり、鳥羽法皇の皇后美福門院にも気にいられ、支援を受けられるようになっていた。まさに前途洋々だった。

 そんな清盛に冷や水をあびせかけた事件が、同年6月14日に発生する。

 この日は祇園社で御霊会(怨霊を鎮める祭礼)があり、田楽が奉納されることになっていた。

 田楽というのは、平安時代の中期から流行った芸能である。もともとは田植のさいに豊作を祈り、田の神をまつるため笛や太鼓にあわせて舞うことからはじまったといわれる。

 翌日には清盛も祇園社に田楽を奉納することになった。このおり、清盛の家人たちが田楽の警備のために現地に来ていたのだが、武装していたことに腹を立てた祇園社の神人(じにん:神社に仕える下級の神官)が「神聖な境内を何と心得ておる! すぐに立ち去れ」と田楽の楽人(演奏家)もろとも社外へ追い払おうとしたのだ。

 このため両者の口論から小競り合いが発生。激した清盛の郎等たちが祇園社に矢を射込み、それが社殿の柱に突き刺さり、さらには神人たちがケガをしてしまったのである。

 まもなく平氏側は引き上げていったが、祇園社はこの暴挙を比叡山延暦寺に訴え出た。祇園社は延暦寺の末社であったため、延暦寺は忠盛・清盛父子を流罪にしてくれるよう、鳥羽法皇に直訴したのである。

 この事態に衝撃をうけた忠盛は、素直に息子清盛側の非を認め、事件に関係した郎等たち七名を鳥羽法皇に引き渡して謝罪した。そこで鳥羽はこの者たちを検非違使庁へ差し出したが、延暦寺はそれでも清盛を赦そうとせず、6月28日、僧兵たちが大挙して強訴におよんできたのである。

 鳥羽はすぐに検非違使の源光保に兵をつけて警備をさせるとともに、院宣を発して「なんじらの強訴を取り上げて調査をおこない、処分について審議する。3日間だけ待ってくれ」と約束した。

 だが、会議では左大臣の藤原頼長が処罰をとなえたものの、平氏には罪がないというのが大勢を占めた。ただ、祇園社には役人が派遣され現場検証がおこなわれ、検非違使庁に引き渡された容疑者には拷問がなされ、自白が強要された。彼等は神社の鳥居あたりにひかえていたが、境内でいきなり騒ぎがおこったので、よく事情が飲み込めぬまま矢を放ったと証言した。こうした捜査に基づき、平氏の罪を軽くする方向で事態が推移していった。

 いっぽう、期限を過ぎても結論が出ないことに腹を立てた僧兵たちは、再び都になだれ込もうという動きを見せはじめた。

 そこで鳥羽は、武士たちを比叡山のふもと西坂本へ派遣し、さらにその兵が交替するさいには必ず自ら閲兵するという熱心さをアピールし、今回については徹底的に延暦寺と対決する姿勢をみせたのである。このような鳥羽の態度をみて、ついに延暦寺の僧兵たちも矛をおさめたのだった。

 なお、祇園社乱闘事件に関しては、清盛に対して銅三十斤の罰金刑が申し渡された。つまり、軽罰ですんだわけだ。この裁定は祇園社側にも伝えられたが、まもなくすると、天台座主(延暦寺のトップ)行玄が延暦寺の僧兵たちに襲撃されて追放されてしまった。行玄が今回の乱闘事件の解決に積極的にのぞまなかったのが僧兵たちは不満だったようだ。

 僧兵と全面対決を覚悟してまで自分のことを守ってくれた鳥羽法皇に対し、清盛は絶大な恩義を感じるとともに、それがなければ、僧兵によってあやうく失脚させられそうになったわけで、僧兵勢力の恐ろしさを味わった。

 清盛は、栄達した後も比叡山延暦寺とだけは事を構えないよう細心の注意を払っているが、それはやはり、この事件におけるトラウマのせいだったと思われる。

 なお、これ以後の数年間、清盛の活動は記録に残っていない。たまたま残存しなかっただけなのか、しばらく謹慎していたのかわからないが、一説には、忠盛の継承者としての地位が危うくなったともいわれている。

 清盛にかわって台頭したのは、乱闘事件の年に正五位下になっていた忠盛の次男で清盛の弟・家盛である。家盛は常陸介に任じられ、賀茂臨時祭において舞人を務め、ついに翌久安4年正月には従四位下右馬頭に叙せられた。清盛の位階に急接近してきたのだ。

 鳥羽法皇も家盛を気にいっていたようだ。翌久安5年には、父の忠盛とともに家盛は鳥羽法皇の熊野詣に供奉している。ところが家盛は、このときすでに病気にかかっており、旅の途中でにわかに病が悪化して、京都の郊外・山崎あたりで死去してしまったのである。まだ26、7歳の前途有望な武将であった。

 忠盛はこのとき慟哭のあまり、

 「なみだがはわれはせきあへぬこのみちを 君よりほかにたれかしるべき」

 と詠んだ。

 ただ、自分に急迫していた弟の家盛が逝ったことで、清盛の家督相続がしっかり定まったようで、同年6月には、高野山根本大塔の再建をになった忠盛の名代として、清盛が造営の事始めの儀に代参している。さらに、同年11月には天王寺に参詣した鳥羽法皇に供奉した。そして仁平元年(1151)には安芸国の国守となり、さらに翌年、鳥羽法皇の五十賀(数え年50歳になったお祝いの儀)の中心となって活躍したのだった。いずれにせよ八坂神社(祇園社)は平清盛とたいへん縁のある神社なのである。

 

<著者紹介>

河合敦河合 敦(かわい・あつし)

作家、歴史家

1965年、東京都生まれ。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。1989年、日本史の教諭として東京都に採用され、2004年より都立白?高等学校・附属中学校に着任。2013年、東京都を退職。現在、文教大学付属中学校・高等学校教諭、早稲田大学教育学部講師。教壇に立つ傍ら、歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。「世界一受けたい授業」(日本テレビ)など、テレビ出演も多数。

主な著書に、『早わかり日本史』『早わかり江戸時代』(以上、日本実業出版社)、『岩崎弥太郎と三菱四代』(幻冬舎新書)、『読めばすっきり! よくわかる日本史』(角川SSC新書)、『目からウロコの日本史』『目からウロコの近現代史』(以上、PHPエディターズ・グループ)、監修に『日本一わかりやすい図解日本史』(PHPエディターズ・グループ)などがある。

 

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