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大関ケ原 渾身の決断に見る漢たちの魅力

2013年05月02日 公開
2022年06月22日 更新

小和田哲男(静岡大学名誉教授)

東軍に与せし者、西軍に賭けし者

この時、東西どちらにつくかの決断を巡って、様々なドラマが生まれることになる。

先に三成を襲撃した秀吉子飼いの七将は東軍に属したが、中でも黒田長政は福島正則の説得役や、小早川秀秋・吉川広家への工作を担当するなど積極的に家康を支えた。長政が家康方に回った理由の1つは、父の如水(官兵衛)が長年秀吉を支えながら、豊前中津12万石という低い石高で冷遇されたことであった。長政自身も朝鮮出兵の際、三成の縁者の讒言で秀吉から譴責されている。三成が実権を握れば、もはや黒田家の発展は望めない。ならば、家康の勝利に家名の興隆を賭けようという必死の決断であった。

長政ほどの武将であれば、ここで家康が勝てば、天下は豊臣家の手から離れることが見えていたはずだ。藤堂高虎や細川忠輿らも、同様に徳川家の天下をつくるという明確などジョンをもって東軍に身を投じていた。

その点、福島正則や加藤清正らの思惑は微妙に違っていた。彼らは君側の奸・三成を叩けばよかった。必ずしも徳川の天下をつくるという意識は持っておらず、あくまで豊臣家の天下を持続させるつもりでいたのである。

一方、西軍に与した大名たちの多くは、「これ以上、家康の専横を許せば、豊臣家の将来はない」と考える、豊臣恩顧の意識が強い大名たちだった。

秀吉の養女を正室にした秀吉の一門衆であり、五大老の一人ともなった宇喜多秀家も、断じて豊臣家を守る覚悟でいた一人である。不運にも、関ケ原前夜に御家騒動が起こり、重臣たちが退去して戦力が大幅に低下してしまうが、秀家の戦意は衰えず、明石掃部を執政として軍の再編を図り、西軍の中核部隊として奮戦していくこととなる。

とはいえ、豊臣恩顧といっても、親世代と子供世代で対応が分かれる側面もあった。蜂須賀や九鬼、真田なども、秀吉と縁深い親は西軍につき、秀吉との関係が浅い息子世代は、東軍につく決断をしている。

西軍の総大将となった毛利輝元の足下でも、決断が分かれた。吉川広家が安国寺恵瓊らによる西軍支持に反対し、毛利家の安泰を固守すべく、家康方への接近を図ったのである。

当時の武士は、「家名存続」という重い使命を担っていた。のみならず、付き従う家臣の命をも預かっている。その意味で、家名のために最善の手を尽くした黒田長政や吉川広家らの決断は見事であった。誤解してならないのは、家康の勝利は決して自明のものではなかった、ということだ。長政や広家は、家康に与する以上、ぜひとも家康を勝たせなければならない。そのために、できうる限りの手を打った。そうした結果が、西軍の南宮山部隊の静観であり、小早川秀秋の内応であった。長政や広家の働きがなければ、関ケ原の結果は大きく変わっていただろう。

一方で、あくまで友への「信義」を貫いた武将もいた。代表例が大谷吉継である。彼は上杉征伐に向かう道すがら、三成の居城に寄り、そこで三成から家康打倒計画を打ち明けられる。吉継はその不利を説き、三成の軽挙妄動を必死で諌めた。だが三成の意志は固い。一度は、三成を振り切ろうとした大谷であったが、友のために共に戦う決断を下し、佐和山城に引き返す。また、吉継の与力であった平塚為広も、吉継が起つのであればと、日頃から敬愛する吉継と生死を共にすることを決断したのであった。

不利とはいえ、大谷吉継と平塚為広も、決して勝負を捨てたわけではない。三成に与する以上、勝利をつかむべくあらゆる手を打ち、関ケ原では寝返った小早川の大軍を、寡兵ながら押し返すという恐るべき奮戦を見せるのである。

当時、「家名存続」のために強者に与することは、決して非難されるものではなかった。その中で、あえて友のために起ち、しかも勝つために死力を尽くした大谷吉継と平塚為広の決断は、一際輝きを放つものと言えよう。

 

見事な出処進退とは――「漢たちの決断」の魅力

天下分け目の戦いに臨んだ武将たちの決断を、後世の価値観でのみ判別しようとしたら、彼らの想いは断じて汲み取れないだろう。

この時代の武士たちが大切にした価値観。それは「名を惜しむ」ということであった。

合戦に至るまでの決断、そして合戦での一挙手一投足の中で、遺憾なく自らの「矜持」や「力量」を示し得た者の「名は残る」。多くの武将たちは、そうありたいと願った。関ケ原の合戦でも、先に挙げた武将たちをはじめ、「名を残した」者たちが数多くいる。

逆に、当時の武士たちにとって最も忌まわしいのは「力量不足」と評価されることであった。典型的なのは、事前の根回しなしに寝返ったり、日和見で決断を下せぬような出処進退である。同じ寝返りでも、事前に意を通じていれば、非難される筋合いのものではなかった。東軍に寝返った武将でも、事前に家康と意を通じていた小早川秀秋や脇坂安治らは所領を安堵されているが、それなしに寝返った赤座直保や小川祐忠は改易されている。

三成や家康も、同じ価値観の中に身を置いていた。三成を評価しない人の中には、「愚かにも負けるとわかっている戦いに突っ込んだ」と評する向きもあるが、それは正しい見方とは言えない。三成はあくまで勝算を立てて挙兵しているのである。

そもそも家康と三成とでは、石高も255万7千石対19万4千石と大きな差がある。勢力基盤が隔絶しており、しかも、戦績も武名も断然、家康が上である。にもかかわらず、蟄居という境遇から挙兵して、短時日のうちに天下を二分するほどの一大勢力を結集し、東軍と互角の陣立てで家康に真っ向勝負するまでに持ち込んだ三成の「決断」と「力量」は、実に見事なものであった。

一方の家康も、決して勝ちが確実な状況ではなかった。徳川譜代の精強部隊3万8千を息子の秀忠に預けて中山道を西上させたが、途中、真田昌幸との上田城での戦いに時間を取られ、秀忠軍は関ケ原での戦いに遅参してしまう。虎の子の軍勢を欠く状況下、いくら吉川広家や小早川秀秋などへの工作を展開していたとはいえ、西軍が待ち構えているど真ん中に突っ込んでいくのは、生きるか死ぬかの勝負に出る決断がなければ、不可能であったはずだ。また、予想に反して西軍が善戦して東軍が押され気味になると、むしろ自陣を桃配山からさらに敵中へと前進させた気迫は、さすがに歴戦の強者の面目躍如と言える。

勝敗の読めぬ状況で、自らの信念を貫徹し、見事な出処進退を見せた武将たちの姿は、実に魅力に富んでいる。もしあの時、あの局面に立っていたら、私たちは果たして「名を残す」ような判断を下せるか――漢たちの決断の積み重ねで戦われた戦いを、当時の視点で見つめ直せば、また違った「関ケ原」が見えてくるはずだ。

著者紹介

小和田哲男(おわだ てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市に生まれる。1972年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士。日本中世史、特に戦国時代が専門で、研究書『後北条氏研究』『近江浅井氏の研究』『小和田哲男著作集』(全7巻)などの刊行で戦国時代史研究の第一人者として知られている。また、NHK大河ドラマ「秀吉」、「功名が辻」、「天地人」、「江~姫たちの戦国~」の時代考証を務める。
著書に『戦国の合戦』(学研新書)『名城と合戦の日本史』(新潮選書)『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)などがある

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