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戦艦大和と武蔵は、日本人の「魂」と「技術力」の結晶だった!

2015年07月08日 公開
2023年02月22日 更新

戸高一成(呉市海事歴史科学館〔大和ミュージアム〕館長)

戦艦大和

戦後70年の今年、海に沈む戦艦武蔵が初めて発見され、世界中の注目を集めた。また、今年5月、呉市の大和ミュージアムは、開館10年で来館者が1,000万人を突破している。今なお、多くの日本人が戦艦大和と武蔵に特別な感慨を抱くのは、なぜなのか。
 

今年、相次いだ武蔵の「新発見」

 今年(平成27年〈2015〉)は、戦艦大和の姉妹艦である武蔵の「新発見」が続きました。3月にはフィリピンのシブヤン海に没した武蔵の船体が発見され、5月には46センチ主砲発射時の写真が新たに見つかっています。特にシブヤン海に沈む武蔵は、その様子がインターネット動画で生中継されたこともあり、日本のみならず世界中の注目を集めました。

 筆者が館長を務める広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)も、平成17年(2005)4月のオープンから10年を迎えた今年5月、総来場者数が1,000万人を超えました。毎年平均100万人ほどの方が足を運んでくださったことになり、特に今年は例年にないほどの勢いになっています。

 今なお、多くの人々が戦艦大和、武蔵という「大和型戦艦」に特別な思いを抱き続けている何よりの証でしょう。

 大和と武蔵は戦後、しばしば「無用の長物」と称されてきました。確かに両艦ともに太平洋戦争の局面を覆す活躍をついに果たせぬまま、生涯を終えています。

 しかしながら、大和型戦艦が搭載した46センチ三連装主砲は、戦艦搭載の艦砲として今に至るまで最大であり、装甲は46センチ砲弾を受けても耐え得る強靭性を誇りました。大和と武蔵が「史上最大・最強の戦艦」であることは紛れもない事実なのです。

 歴史に向き合う際、過去の出来事を現在の価値観で推し量っては、時に真実を見落としてしまいます。当時の人々が置かれていた状況や思いを客観的に捉えて、初めて本当の意味での解析ができるのです。

 では、日本人は、なぜ戦艦大和と武蔵を生みだしたのか。不世出の戦艦に託したものとは、いったい何であったのか――。今、それらに改めて目を向けることに、極めて重大な意味があると私は考えています。
 

なぜ、大和と武蔵を造ったのか?

 日本が大和型戦艦の一番艦である大和の建造を始めたのは、昭和12年(1937)のことでした。日本海軍が巨大戦艦を求めた理由を知るには、大正11年(1922)締結のワシントン海軍軍縮条約に目を向ける必要があります。

 日露戦争、第一次世界大戦を経て世界の大国の仲間入りを果たした日本でしたが、これを押さえつけようとするアメリカら主導の軍縮条約によって、今後10年間の戦艦新造が禁止されました。日本は、建艦能力の全てを注ぎ込むはずの「八八艦隊計画」の中止を余儀なくされます。

 その後、さらに補助艦保有量を制限するロンドン海軍軍縮条約を経て、このままでは仮想敵国のアメリカに抗する術のない日本は、軍備平等を主張するも受け入れられず、会議を脱退。しかしアメリカとの国力差は隔絶しており、日本は国家予算の全額を投入しても建艦競争には勝てないのが現実でした。

 「持たざる国」日本が「持てる国」アメリカに抗しうる戦力を持つには、どうすべきか――。そう考えた海軍が計画し、建造したのが、46センチ主砲を搭載する大和型戦艦でした。

 アメリカがどれほど多くの戦艦を揃えていても、現実的には一度の艦隊決戦に全てを投入することはありえず、大和型戦艦を擁すれば個別の決戦で敵艦隊の戦力を凌駕できます。その戦略は、当時の日本の経済力を鑑みれば実に理に適った選択でした。

 超大国による圧迫を前に、「国を守る戦備をどう実現するか」を模索する日本海軍が辿りついた乾坤一擲の一手、それこそが戦艦大和と武蔵であったのです。

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著者紹介

戸高一成(とだか・かずしげ)

呉市海事歴史科学館館長

1948年、宮崎県生まれ。多摩美術大学卒。財団法人史料調査会理事、厚生労働省所管「昭和館」図書情報部長などを歴任し、2005年より現職。海軍史研究家。著書に、『海戦からみた日清戦争』(角川書店)ほか多数。

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