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若きリーダー・鍋島直正が幕末佐賀で起こした「近代化の奇跡」(後編)

2016年03月04日 公開
2023年10月04日 更新

植松三十里(作家)

幕末の佐賀藩主・鍋島直正まさのもと、近代化に挑戦した精煉方をはじめとする幕末佐賀の男たち。そんな彼らにとって最大の課題が、蒸気機関の製造であった。佐野常民や田中久重、中牟田倉之助を中心に、他藩に先駆けた未曾有の挑戦が行なわれた。

 

三重津海軍所絵図。電流丸や皐月丸など佐賀藩所有の蒸気船、帆船が繋留する艦隊根拠地としての三重津海軍所を描いており、日本初の実用的蒸気船・凌風丸の姿も見える(公益財団法人鍋島報效会蔵)

 

プロジェクトチーム・精煉方、始動

 鍋島直正は反射炉で鉄製大砲を製造させるかたわら、嘉永年(1852)、精煉方という、いわゆる理化学研究所を、佐賀城下に発足させた。精煉方では化学薬品の研究や、カメラ、電信機、ガラスなどの製作も行なったが、最大の課題は蒸気機関の製造だった。

 精煉方がスタートした翌年、長崎で蘭学塾を開いていた佐野常民という藩士が、佐賀に呼び戻されて、これに加わった。

 佐野は明治以降に日本赤十字社を創設したことで知られるが、もとは佐賀城下から南東に6キロほど離れた三重津(佐賀市川副町)という村で生まれ育った。16歳の時に江戸に出て、古賀侗庵に入門。直正が学んだ古賀穀堂の弟で、海防に詳しい儒学者だ。その後、佐野は京都や大坂、長崎など、各地で蘭学の修行をした。特に大坂では緒方洪庵の適塾で学んだ。福澤諭吉など全国から精鋭が集った塾だ。

 そして32歳の時に、佐賀に呼び戻されたのだ。佐野は精煉方の責任者になると、他国出身者でも用いるべきだと、直正に進言。その結果、修行時代の仲間だった蘭学者の石黒寛次や、後に東芝の創業者となる田中儀右衛門など、優れた人材が集まり、研究に弾みがついた。

 その後、ペリーが浦賀に来航すると、ようやく幕府は海軍創設に動き出し、長崎のオランダ商館に協力を求めた。それに応えて、ファビウスという海軍中尉が、オランダ領だったジャワから長崎に来航。

 安政元年(1854)の夏と翌年夏、それぞれ3カ月ほど出島に滞在し、スンビン号(観光丸)というオランダ軍艦を使って海軍の仮伝習を行なってみせた。幕府としては初めてのことだけに、実際に見てみないと、海軍教育の何たるかが理解しにくかったのだ。

 長年の長崎警備の縁もあり、佐賀藩と福岡藩から、藩士と水夫、あわせて十数名ずつが仮伝習を受けた。これに本島藤太夫や杉谷雍助など、大銃製造方の主要メンバーが加わった。伝習によって軍艦の操船だけでなく、最新の砲術の習得も期待していたのだろう。2年目には佐野常民が加わった。

 また鍋島直正も長崎に出向き、みずからスンビン号に乗り込んで仮伝習を視察。その場でファビウスに、スンビン号を売ってもらえないかと申し出た。蒸気機関製造のモデルにしたかったのだろう。さすがに丁重に断られたが、その後、改めて新造船を発注する。

 実は直正は、17歳でオランダ商船に乗った後も、長崎に来航したオランダ軍艦に乗り込んで、軍事調練を見せてもらった経験があった。このフットワークの軽さこそが、直正ならではの個性だ。

 その後、諸藩も海軍創設に向かい始め、長崎まで洋船買いつけに出向くようになった。だが藩主自身が買いつけ交渉を行なうなど、佐賀藩以外ではありえない。直正が自分の目で見て知識を蓄え、それに基づいて即決できたからこそ、反射炉や精煉方のような未曾有の大事業も、短期間で滞りなく進んだのだ。

 

他藩に先駆けた改革

 幕府は仮伝習後、オランダから正式な海軍教官団を招き、安政2年(1855)十月、長崎に海軍伝習所を開いた。江戸から幕臣48名が1期生として入所し、諸藩にも門戸を開いた。

 佐賀藩からも佐野常民ら48名が入所。この人数は諸藩の中で突出しており、幕臣と同数だ。直正としては、もっと大人数を送り込みたかったところを、幕府に遠慮して抑えたのかもしれない。

 当時の海軍は軍艦の操船とともに、造船が重要課題だった。蒸気機関に海水を用いていたために傷みやすく、常にメンテナンスが必要で、そのためにも造船所が必要だったのだ。

 もともと佐賀藩の洋式造船への着手は、かなり早かった。ペリー来航の6年前、弘化年(1847)には、長崎の出島でバッテーラと呼ぶボートを建造させた。幕府の禁止令があったために、小型ではあったが、構造は洋式だった。

 なぜ洋式構造の船が必要だったかといえば、大砲を積載するためだ。和船は船底が平らで、喫水線から下が浅い。そのために大砲発射の際の揺れに弱かった。これに対して洋船は喫水線から下が深く、とがった船底に重りを載の せるために、起き上がり小法師のように揺れに耐えられるのだ。

 嘉永6年(1853)にペリー艦隊が来航すると、幕府は大型船建造の禁止令を解き、幕府の出先機関である浦賀奉行所や、水戸藩、薩摩藩などで、いっせいに洋船建造をスタート。当時の船大工の技術は高く、初めての体験にもかかわらず、どこも数カ月から2年半ほどの短期間で完成に至っている。

 だが、この時、佐賀藩の視線は、すでに船体の建造ではなく、その先の蒸気機関に向いていた。精煉方の佐野常民たちが、蒸気機関車の雛形を造っていたのだ。全長40センチ弱ながら、自走できる雛形だった。

 安政4年(1857)になると、幕府は海軍伝習を進めるかたわら、オランダからハルデスという技術者を招き、工作機械も輸入して、長崎に本格的な造船所を建設した。これは後に岩崎弥太郎に払い下げられ、今も三菱重工の造船所として稼働している。

 翌安政5年、佐賀藩は、三重津に御船手稽古所という洋式海軍の教育施設を設けた。この地に着目したのは、三重津の生まれ育ちだった佐野常民だろう。

 現在、佐賀県と福岡県の県境には、筑後川が流れている。筑後川は河口近くで、早津江川に分流して海に注ぐ。早津江川が大きく蛇行する地点が三重津だ。蛇行する淀みの部分に、古くから藩の御用船の船着場があり、それを転用したのだ。

 御船手稽古所では、佐野以下、長崎の伝習所の卒業生たちが後進を指導。さらに同じ場所で造船所建設も目指した。いよいよ精煉方でつちかった技術を活かす場だった。

 

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