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池田恒興~小牧・長久手の戦いで討死した織田信長の乳兄弟

2017年04月09日 公開

歴史街道編集部

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今日は何の日 天正12年4月9日

池田恒興が長久手の合戦で討死

天正12年4月9日(1584年5月18日)、池田恒興が息子の元助とともに、長久手の合戦で討死しました。恒興は織田信長の乳兄弟として知られます。 恒興は天文5年(1536)、池田恒利の息子に生まれました。通称、勝三郎。諱は信輝とも伝わりますが、死の前月の文書にも恒興と署名しています。

母親の養徳院は信長の乳母であったため、恒興と信長は乳兄弟の関係になります。幼い頃から信長の父・信秀に従ったといわれ、信長の下でも稲生の戦い、浮野の戦い、桶狭間の戦いに従い、若き信長を支えました。一説に謀叛を企てた信長の弟・信行を討ったのも恒興であったといわれます。 元亀元年(1570)、越前攻め、小谷城攻め、姉川の合戦にも参加。姉川の合戦では丹羽長秀とともに徳川家康軍に加勢し、朝倉軍を破る功績を上げました。同年、尾張の犬山城とその周辺の地・1万貫を与えられたといわれます。

天正元年(1573)、信長の息子・織田信忠の麾下に入ったと思われ、翌年の伊勢長島攻めには信忠の下で従軍しました。 天正6年(1578)、荒木村重の摂津有岡城攻めに参加。その後、頑強に抵抗する摂津の花隈城を天正8年(1580)に攻略します。この功で、村重の旧領の一部を与えられるとともに、摂津の軍事指揮権を手にしたといわれます。 天正10年(1582)の武田攻めには参加せず、信長より中国の毛利と対峙する羽柴秀吉の援軍を命じられました。しかし6月2日の本能寺の変により、それは実現せず、明智光秀の勧誘には乗りません。乳兄弟の信長を討った光秀に与さないのは、当然だったでしょう。

恒興は中国の秀吉軍の東上を待ち、尼崎で秀吉や織田信孝、丹羽長秀らと合流しました。この時、恒興の軍勢は秀吉軍の1/4ほどであったようです。 6月13日の山崎の合戦では、恒興は右翼部隊の主力となって勝利に貢献しました。こうした功績もあって、織田家の宿老の一人として、恒興は清洲会議に参加します。

会議に列した柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀の3人に比べると、恒興は実力・経歴から一段落ちますが、そこは信長の乳兄弟というポジションがものを言ったのでしょう。清洲会議で恒興は三法師を後継者に推す秀吉を支持し、大坂・尼崎・兵庫12万石を得ました。恒興は大坂に移り、長男・元助を伊丹に、次男・輝政(照政)を尼崎に入れます。

翌天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦には参加しませんでしたが、美濃の大部分の13万石を拝領して大垣城主となりました。岐阜城には元助が入ります。そして天正12年(1584)の羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との小牧・長久手合戦でも、秀吉に味方しました。

緒戦で尾張へ出陣して犬山城を攻略。戦線が膠着すると、家康の虚を衝いて三河に侵攻すべく、三好信吉(羽柴秀次)、娘婿の森長可、堀秀政らと出撃。しかしこれを察知した家康に長久手で攻撃され、長男元助とともに討死しました。恒興、享年49。

小牧・長久手合戦が秀吉の勝利となれば、恒興には尾張一国が与えられる約束であったといいます。 しかしその後、次男・輝政の活躍で、池田一族は100万石を領し、輝政は「西国将軍」と呼ばれるに至るわけですから、輝政が長久手から生還したことは、大きな意味を持ちました。

iyashi

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