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山川健次郎の生涯~白虎隊から東大総長へ

2017年07月17日 公開

歴史街道編集部

山川健次郎

今日は何の日 嘉永7年閏7月17日

東京帝国大学初代総長・山川健次郎が生まれる

嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)、山川健次郎が生まれました。会津藩士で家老山川大蔵(浩)の弟、山川捨松の兄にあたります。

嘉永7年、健次郎は会津藩士・山川尚江の3男に生まれました。万延元年(1860)、7歳の時に父が没し、家督は9歳年上の兄・大蔵(浩)が継ぎます。 慶応4年(1868)8月、新政府軍は会津若松城下へと迫りました。

数え年15歳の健次郎は、白虎隊に属していました。 16歳、17歳の少年で構成される白虎隊ですが、この時期、15歳まで含めていたのです。 しかし、満14歳の少年に重い鉄砲を担いで戦うことは体力的に無理があると判断され、ほどなく15歳の少年たちは除隊となります。従って、8月23日の新政府軍の城下侵攻に伴い、山川家が会津若松城に入った折には、健次郎は家族とともにありました。籠城戦中、山川家の女性たちも奮闘します。山川大蔵の妻・登勢子は落ちてきた砲弾を濡れ布団をかぶせて不発にしようとしますが間に合わず、破裂した砲弾の破片を受けて命を落としました。

会津藩が降伏する直前のこと。会津藩士たちは全員が殺されることを覚悟し、最も優秀な若者2人を逃がして、何とか会津人の血を後世に伝えようと考えました。そこで選ばれたのが、藩校日新館で秀才を謳われた山川健次郎と小川亮だったのです。2人は秋月悌次郎と親交のあった長州藩士・奥平謙輔が、書生として預かります。会津藩憎しで凝り固まる長州人の中にも、こうした人物がいたことは注目に値するでしょう。

やがて小川は明治陸軍に入って大佐にまで昇進、しかし若くして亡くなりました。一方、健次郎は明治4年(1871)、国費留学生として18歳でアメリカに留学、エール大学に学びます。健次郎は英語力をつけるため、わざと日本人が1人もいない田舎町に住んで、死に物狂いで勉強をしました。苦しかった籠城戦や、白虎隊として死んだ仲間たちの顔を思い浮かべては、歯を食いしばって奮起したと自ら記しています。健次郎は西洋文明を育てた科学に感銘を受け、大学では物理学を専攻しました。そして大学を最短の4年半で卒業し、物理学の学位を得ます。

帰国後、明治9年(1876)に東京開成学校(翌年、東京帝国大学に改編)の教授補に就任。明治12年(1879)、26歳にして日本人としては初めての物理学教授となりました。 明治21年(1888)、35歳の時に、東京帝国大学初の理学博士号を授与されます。そして明治34年(1901)、48歳で東京帝国大学総長に就任しました。一方、健次郎は兄の浩とともに、会津藩を賊徒扱いする歪んだ史観を打破しようと、『京都守護職始末』を執筆。 浩の死後の明治34年、これをもって会津松平家の困窮を救うための手許金を、宮中から下賜されることになりました。

健次郎は明治の世にあって、社会を正しく導く見識を持った人という意味で、「星座の人」と呼ばれ、多くの人から尊敬を受けたといいます。 しかし、明治37年(1904)、日露戦争が始まると、東京帝大総長でありながら陸軍に押しかけ、「一兵卒でいいから、自分を従軍させろ」と談判して、陸軍の人事担当者を困惑させています。白虎隊以来の、会津人としての国難に赴く血の熱さは常に持っていたのでしょう。

その後、健次郎は九州帝大、京都帝大の総長を務め、大正2年(1913)、再び東京帝大総長に復職しています。また健次郎は乃木希典の清廉潔白な生き方に尊敬の念を抱いていました。乃木もまた、健次郎の人物を認め、昭和天皇の皇太子時代の学問所委員に、健次郎を推薦した後に、殉死しています。

健次郎は生涯、質素な家で暮らし続けました。壁に架かるのは保科正之の「会津藩家訓」と、恩人である奥平謙輔の書のみであったといいます。

昭和3年(1928)、昭和天皇の皇弟・秩父宮の妃殿下として、松平恒雄の娘・節子(成婚後に勢津子と改名)が入輿されます。皇室に会津の血が迎え入れられたわけで、会津の人々からすれば会津戦争から60年経って、ようやく訪れた慶事でした。この成婚のために、東奔西走したのも健次郎でした。成婚した年の秋、健次郎は京都の黒谷で催された京都会津会の秋季例会に、松平恒雄、松平保男、林権助、柴五郎、新島八重らとともに参加しています。

それから3年後の昭和6年(1931)、健次郎没。享年76。 学問の世界で明治の世に大きく貢献した健次郎ですが、その生き方は、節を曲げることなく汚名を払拭するまで戦い抜いた、会津武士そのものであったといえるでしょう。

iyashi

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