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生まれながらの将軍・徳川家光~それを支えた父・秀忠と六人衆

2017年07月27日 公開

歴史街道編集部

今日は何の日 元和9年7月27日

徳川家光が将軍宣下

元和9年7月27日(1623年8月23日)、徳川家光が将軍宣下を受けました。「生まれながらの将軍」を自称したことでも知られます。

元和9年6月、20歳の家光は父親の秀忠とともに上洛し、伏見城において将軍宣下を受け、正二位内大臣となりました。秀忠は隠居したものの、「大御所」として政治の実権を握り、幕府はしばらく二元政治が行なわれることになります。しかし寛永9年(1632)に秀忠が没すると、いよいよ家光の治世となりました。家光は秀忠逝去に伴い、参集した諸大名の前でこう言ったといいます。

「東照宮(家康)が天下を平定なさるに際しては、諸侯の力を借りた。また秀忠公も、元はおのおのがたの同僚であった。しかし、余は生まれながらの将軍であり、前の二代とは格式が異なる。よっておのおの方の扱いは、これより、家臣同様である」

諸大名は幕府の威勢を背景とする家光の言葉に恐れ入って、ただひれ伏すのみでした。徳川将軍が、諸大名と完全に一線を画する存在となった瞬間であったのかもしれません。もっともそれは家光の自発的な発意だけでなく、父・秀忠の遺志でもありました。臨終間際、秀忠は家光を枕元に呼び、「徳川が天下を取って、まだ日が浅い。法令の類も万全とはいえず、近いうちに改めるつもりであったが、わしはもはや命が尽きかけている。わしが死んだ後は、お前がこれを改めよ。誰にはばかることもない。それこそが、わしの意を継いだことになる」と言い残していたのです。

以後、家光は、叔父の紀州頼宣の義兄にあたる肥後の加藤忠広を躊躇なく改易にしたのを皮切りに、たとえ縁者や身内であっても、幕法に適わぬことがあれば、容赦のない処分を下していきます。幕府や将軍に対し、不遜ともいえる言動をしていたとされる実の弟・駿河大納言忠長を改易に処し、寛永10年(1633)に切腹を命じたのも、その一つの表われといえるでしょう。また幕府の職制(老中・若年寄・奉行・大目付)を定め、将軍を頂点とする組織の強化を図りました。さらに諸大名に参勤交代を義務付ける武家諸法度の改訂、寛永14年(1637)の島原の乱の鎮圧と、それを受けての鎖国の完成など、「武断政治」を遂行します。そしてそれを支えたのが、俗に六人衆と呼ばれる側近たちでした。すなわち知恵伊豆こと松平信綱、堀田正盛、阿部正秋、阿部重次、三浦正次、太田資宗の六人、加えて稲葉正勝(春日局の子)らです。さらに実弟・保科正之もいました(家光の若い頃には土井利勝や柳生宗矩もいます)。優秀な家臣らのサポートを受けて、家光は幕府の基盤固めをほぼ完成させることができたのです。

家光は祖父・家康を深く尊敬し、守り袋に「二世権現、二世将軍」と書いた紙を入れ、父親の秀忠の頭越しに、自分が家康の二世であるという意識を持っていたともいわれます。家康が開いた徳川幕府を磐石なものとした家光は、満足感を得てこの世を去ったのでしょうか。慶安4年(1651)没。享年48。

iyashi

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