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高杉晋作による下関戦争の講和交渉~まるで、魔王のようだった

2017年08月14日 公開

歴史街道編集部

高杉晋作

今日は何の日 元治元年8月14日

下関戦争で長州藩が四カ国連合艦隊と講和

元治元年8月14日(1864年9月14日)、下関戦争(馬関戦争)において、長州藩が四カ国連合艦隊と講和しました。講和使節を高杉晋作が務めたことで知られます。

前年(文久3年)の、長州藩による馬関海峡を通過する外国船の無差別攻撃に対し、その報復として8月5日から行なわれたのが、英米仏蘭四カ国連合艦隊による、下関砲撃でした。

直前に京都において禁門の変で敗北を喫していた長州藩にすれば、泣きっ面に蜂のようなタイミングです。あくまで外国船の海峡通過を許さないという長州藩の攘夷の姿勢に業を煮やした列強による、懲罰的意味合いの攻撃で、参加した艦船は17隻にのぼりました。

これに対し長州藩は、およそ2000の兵力で沿岸の120門の大砲で応戦します。しかし、主力が禁門の変への参加で不在であり、さらに火力の差も圧倒的で、前田砲台など、連合軍陸戦隊が上陸して破壊された砲台も出ました。上陸した陸戦隊に、旧式銃の長州藩兵は歯が立たず、唯一、弓が意外に効果を上げたといわれます。しかし総じて惨敗でした。

8月8日、藩庁は講和使節として、高杉晋作を抜擢します。高杉はこの時、脱藩の罪で牢につながれていましたが、急遽任じられたのは、胆力を買われてのことでしょう。 高杉は家老・宍戸備前の養子、刑馬(ぎょうま)と名前を変えて身分を偽り、連合軍の旗艦ユーリアラス号に乗り込みます。イギリスのキューパー司令官との談判に臨んだ高杉は、終始傲然とした姿勢を崩さず、その様子をイギリス人通訳アーネスト・サトウは、「魔王」のようだと評しました。

最初の交渉では、長州側の書類の不備をつかれ、また藩主が交渉の席に出てこないことも連合国側にすれば不満であったらしく、48時間の休戦を決めただけで終わります。ところが2回目の交渉の前に、高杉は姿をくらましました。講和をよしとしない攘夷派から命を狙われたためですが、高杉には計算があったのかもしれません。つまり自分の代役として臨む家老では埒は明かないだろう。連合国側は、これならば次回は最初の交渉役の高杉を出せと言うに違いなく、そうなれば交渉しやすくなる、と。実際、8月14日の3回目の交渉の席に高杉が臨むと、連合国側は「藩主を出せ」と要求しますが、高杉が「藩主は蟄居中である」と応えると、あっさり引き下がりました。高杉が出席しただけでもよしとしたわけで、彼の狙い通りになったともいえます。

この時、連合国側はまず馬関海峡の外国船の通行の自由、薪炭の供与、悪天候時の寄港と船員の上陸許可を求め、これについては高杉もすんなり認めます。次に連合国側は、賠償金として300万ドルの支払いを求めました。 高杉はこれも認めますが、ただし支払うのは長州藩ではなく、長州藩に攘夷を命じた幕府の義務である。幕府に請求せよとして、相手に認めさせました。もっともこの賠償金、幕府が倒れた後、明治政府が引き継いだというおちがあります。

なお、キューパー提督は、重ねて彦島の租借を申し込んだといわれます。 司馬遼太郎氏の小説などでは、ここで高杉が朗々と「古事記」の暗誦を始め、通訳の伊藤俊輔を辟易させることになりますが、彦島租借要求が実際にあったかどうかは記録にありません。いずれにせよ高杉は、持ち前の押しの強さと巧みな駆け引きで、連合国との講和をまとめました。実に見事な交渉役であったといえるでしょう。

この講和を機に、長州藩でも即時攘夷を唱える者は影をひそめ、最新式の軍備の重要性を強く認識するきっかけとなります。そして、高杉が一世一代の大博打ともいうべき長府の功山寺挙兵に踏み切るのは、この年の冬のことでした。

iyashi

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