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貝原益軒の生涯~養生の要と長生きの秘訣

2017年08月27日 公開
2023年03月09日 更新

『歴史街道』編集部

今日は何の日 正徳4年8月27日

貝原益軒が没

正徳4年8月27日(1714年10月5日)、貝原益軒が没しました。江戸時代の本草学者、儒学者で、健康書の『養生訓』、教育書の『和俗童子訓』などの著書で知られます。

寛永7年(1630)、益軒は筑前福岡藩士で書記役を務める貝原寛斎の5男に生まれました。通称、久兵衛。幼少の頃から本好きで、博識であったといいます。18歳で福岡藩に出仕しますが、慶安3年(1650)、21歳の時に2代藩主・黒田忠之の不興をかい、7年間の浪人生活を送りました。その後、明暦2年(1656)に3代藩主・光之に許されて、藩費による京都留学で本草学や朱子学を学びます。

益軒はもともと体があまり強くありませんでしたが、そのこともあって、我が身を使って漢方薬を試したりもしました。 帰国後、藩内で朱子学を教える一方、朝鮮通信使の応対を任され、また佐賀藩との国境問題に奔走するなど活躍。さらに藩命により『黒田家譜』を編纂しました。39歳の時に17歳のお初を嫁に迎え、二人で諸国を旅して記した観光案内書『諸州巡覧記』が大当たりしたといわれます。

しかし天和元年(1681)の52歳の時、「天和の飢饉」に際して自分の学問が何の役にも立たないことに愕然とし、以後、「民生実用の学」に力を入れるようになりました。そして自分の畑に数十種類の野菜や薬草を植えて研究。同じ種類の野菜でも日照りや冷害に強いものもあることを発見したり、枝葉を土に埋め込んで日光を遮断し、そのまま腐葉土にしてしまう方法を考案したりしています。そうして10年以上に及んだ研究を元禄9年(1696)に宮崎安貞とともに『農業全書』として発表。仮名まじり口語文の平易な文体で解説し、肥料を使った土壌改良や二毛作など、農業を一新する内容でした。

元禄13年(1700)、71歳で職を辞すと、著述に専念。道徳を説く『和俗童子訓』を出版し、正徳3年(1713)の84歳の時に『養生訓』を書き上げました。その著書は生涯に60部270余巻に及びます。益軒は『養生訓』を書き上げた翌年の正徳4年に死去。享年85。

益軒が記した言葉をいくつか紹介しましょう。

「妄りに薬を服すべからず。病の災より薬の災が多し」
「食は身を養うものなり。身を養うものを以て身を損なうべからず」
「倹約は、身に奉ずること薄きこと。吝嗇とは、人に奉ずること薄きこと」
「命の長短は身の強弱によらず、慎と不慎とによれり」
「養生の要は、自ら欺くことを戒めて、よく忍にあり」
「天下のこと、我が力に為し難きことは、ただ天に任せておくべし。その心を苦しむは愚かなり」
「喜怒の時、耐えて事すべからず。喜びもやみ、怒りもやみ、常の心になりて後、事を行なうべし」

今も生きる言葉の数々です

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