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坂本乙女~龍馬を育てた姉の実像

2017年08月30日 公開

歴史街道編集部

坂本竜馬

今日は何の日 明治12年8月31日

坂本乙女が没

明治12年(1879)8月31日、坂本乙女が没しました。坂本龍馬を母代わりになって育てた姉として知られます。本来、乙女は「とめ」と読み、お乙女で「おとめ」と呼ぶとも、あるいはお留であるともいわれます。「おとめ姉さん」であることは変わりません。

天保3年(1832)、乙女は土佐藩郷士・坂本八平の三女に生まれました。弟の龍馬は3歳下です。弘化3年(1846)、母親の幸が病没すると、15歳の乙女は龍馬を母親代わりとなって面倒を見ました。12歳になっても直らなかった龍馬の寝小便癖を直し、近くの鏡川で龍馬に水練の稽古をつけたエピソードなどはよく知られています。

成人した乙女の体格は身長5尺8寸(約174cm)、体重30貫(約112kg)。相当な大柄で「お仁王」とあだ名されており、15歳の頃にはすでに大人顔負けの体格だったことでしょう。しかも男勝りで負けず嫌い。薙刀を得意とし、強弓をひき、水練も達者で馬術もできます。武芸に通じる一方、琴、三味線、舞踊もでき、さらに和歌や学問にも通じていました。そんな乙女からすれば、気が優しくていつも塾でいじめられ、泣かされて帰ってくる弟が不憫でもあり、不甲斐なかったのでしょう。行儀作法も読み書きも剣術もびしびしと鍛え、幼い龍馬にとって乙女は模範であり、一番心を許せる姉でもありました。龍馬は脱藩後も乙女宛てに頻繁に手紙を書き、現存するものだけでも16通にのぼり、龍馬の飾らない肉声を余すところなく伝えています。

安政3年(1856)、乙女は25歳で4歳年上の藩の典医・岡上樹庵の後妻に入り、一男一女を生みますが、浮気をする夫との仲はあまり良くなく、樹庵の祖母ともうまくいかなかったようです。男勝りに武芸も学問もできながら、料理や裁縫は苦手だった乙女は、岡上家からはあまりいい嫁と見なされませんでした。

慶応3年(1867)には離婚するに至ります。乙女は龍馬に土佐を出奔し、女ながら志士として活動したいと訴えたこともあり、龍馬は懸命にこれを宥めました。龍馬が暗殺されると、龍馬の妻・お龍が未亡人として坂本家に庇護されますが、3ヶ月ほどでお龍は坂本家を去っています。この時、実家に戻っていた乙女と不仲だったのではという説もありますが、お龍は「乙女さんには親切にして頂きました」と後年語りました。

乙女の息子・赦太郎は早世しますが、娘の菊栄は、乙女から言い聞かされた教訓について語り伝えています。すなわち「人間はどんなに落ちぶれても、尾籠(びろう)の振舞いをするな」「人前で恥をかいたら、何時でも死ね」。また父・樹庵の死を悲しむ菊栄に、「這い寄る時にでも、親は死ぬるぞよ」。龍馬に対する教えも、これらの言葉から推し量れるように思います。

明治12年(1879)、乙女は壊血病に罹って没しました。享年48。いらいらが募ると、時に山に入って拳銃をぶっ放すこともあったという乙女。「おっとろしいのー(怖ろしいのお)」と龍馬の苦笑する顔が目に浮かぶような気がします。

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