ホーム » 歴史街道 » 編集部コラム » 浅井長政の生涯~信義を重んじた武将の運命を分けた決断

浅井長政の生涯~信義を重んじた武将の運命を分けた決断

2017年08月31日 公開

歴史街道編集部

小谷城、浅井長政公自刃之地碑
小谷城跡、浅井長政公自刃之地碑
(滋賀県長浜市)
 

今日は何の日 天正元年9月1日

小谷落城。浅井長政が自刃

天正元年9月1日(1573年9月26日)、浅井長政が自刃しました。織田信長の妹・市の夫で、茶々をはじめとする三姉妹の父親として知られます。

天文14年(1545)、長政は浅井久政の嫡男として、六角氏の居城・観音寺城下で生まれました。幼名は猿夜叉丸。長政の祖父・亮政は武勇に優れ、当時、北近江の守護であった京極家の家中で実権を握り、さらに南近江の六角氏と対立するまでに至りますが、亮政の死後、その息子で長政の父である久政は武勇が振るわず、浅井氏は六角氏の配下となってしまいました。

久政は息子(長政)に六角義賢の一の字を譲り受けて賢政と名乗らせ、また六角氏重臣・平井氏の娘と賢政を結婚させようとするなど、徹底的に六角氏に追従します。 これに反発したのが長政でした。長政は自分を支持する家臣と協力して父・久政を隠居させると、賢政の名と平井氏の娘を六角氏に返上して、配下から離反する遺志を明確にします。そして永禄3年(1560)、15歳の長政は軍勢を率いて野良田の戦いで六角軍に挑み、これに大勝して将器の片鱗を示しました。永禄6年(1563)には美濃に侵攻し、斎藤龍興軍と戦いますが、軍の背後を六角勢が襲うと、軍を反転させて六角勢を撃破してのけています。

こうした長政の活躍に目をつけたのが、織田信長でした。美濃攻略に手間取る信長は、長政と同盟を結ぶことで、状況を打開しようとします。織田との同盟に浅井家臣団の中では反対意見も少なくなく、重臣の遠藤直経は信長を「表裏ある者」と危険視しました。しかし長政は、長年友誼を結んできた朝倉氏を信長が攻めないことを条件に同盟を結ぶことを決断、信長は妹の市を「娘分」として長政に嫁がせます。嫁いだ時期は、信長が美濃を攻略する前の永禄7年(1564)とも、美濃を攻略した年の永禄10年(1567)ともいわれます。

上洛経路が確保できた信長は永禄11年(1568)、頼ってきた足利義昭を奉じて上洛戦を開始、阻止しようとした南近江の六角氏を破りました。これによって長政の長年の宿敵・六角氏は勢力が衰え、長政は勢力を伸張します。翌年には、15代将軍となった義昭を三好三人衆らが本圀寺に襲いますが、長政は義昭の救援に駆けつけて、三好勢を撃退しました。

ところが元亀元年(1570)。信長は長政との同盟の条件を破り、越前朝倉領に攻め込みます。朝倉をとるか、織田をとるか。長政は決断を迫られますが、約束を破った信長の非を鳴らす家臣らの声も多く、信長と手を切ってその背後を衝くことを選びました。この時、正室の市が兄・信長の危急に、両端を紐で結んだ小豆の袋を送って知らせた話が「朝倉家記」に載りますが、俗説という見方が強いようです。

信長は金ヶ崎の撤退を行ない、辛うじて脱出に成功しました。 同年6月、浅井・朝倉連合軍は、近江国姉川で織田・徳川連合軍と衝突。数で劣りながら浅井勢は善戦しますが、朝倉勢の壊乱もあり、合戦に敗れました。しかし織田方にも一気に勝負をつけられるほどの余力はなく、浅井・朝倉は延暦寺や本願寺と結んで、信長への攻勢をなおも続けます。

しかし翌年、信長は延暦寺を焼き討ちして敵対勢力を一つ潰しました。そして元亀3年(1572)7月、信長は北近江に侵攻。浅井は朝倉に援軍を依頼しますが、劣勢は変わりません。しかし、そこへ朗報が届きます。甲斐の武田信玄の西上開始でした。信玄は長政に書状を送り、連繋作戦を確認します。すなわち織田勢を近江に引き付けておき、その間に武田軍団が尾張、美濃に侵攻するというものです。長政にすればまさに起死回生の好機であり、何としても成功させねばなりません。実際、年末に武田軍は遠江で徳川軍を三方ヶ原で粉砕しており、その勢いの前に信長は絶体絶命でした。ところが…。

近江で浅井勢とともに信長と対峙していた朝倉軍が、疲労と積雪を理由に突如、越前に帰国。このため信長は美濃に帰還することを得ました。信玄は朝倉の背信行為に激怒しますが時すでに遅く、翌天正元年(1573)2月、信玄の急死により武田軍は甲斐に戻ります。これで長政は一気に形勢不利となりました。信長がこの機を逃すはずもなく、同年7月、3万の大軍で再び北近江に侵攻、朝倉勢も再び援軍に向かいますが、織田軍の勢いを見て後退したところを一気に攻められ、壊滅。長政は小谷城で孤軍となり、勝機は失われました。

長政は降伏勧告を拒み、妻の市と三人の娘を織田陣中に送り届けると、9月1日、自刃しました。享年29。長政の生涯を俯瞰すると、相当な将器の持ち主であったことが窺えます。結局、その運命を分けたのは、元亀元年に信長が朝倉に攻め込んだ時の朝倉に味方した決断ですが、もしあの時、朝倉とのつながりを無視して信長に従っていたら、長政の後世のイメージもまた大きく変わっていたかもしれないとも思います。そもそも家臣たちも首を縦に振ったかどうかはわかりません。力の論理は承知の上で、信義を重んじた決断を下した点に長政の魅力があるようにも感じるのですが、いかがなものでしょうか。

iyashi

関連記事

編集部のおすすめ

姉川の戦い~織田・徳川と浅井・朝倉が大激戦

歴史街道編集部

比叡山延暦寺はなぜ、織田信長に焼き討ちされたのか?

河合敦(歴史作家、多摩大学客員教授)

足利義昭の数奇な生涯~室町将軍から信長包囲網、そして秀吉の御伽衆へ

歴史街道編集部


アクセスランキング

  • Facebookでシェアする
iyashi

現代からの視点で日本や外国の歴史を取り上げ、今を生きる私たちのために
「活かせる歴史」「楽しい歴史」をビジュアルでカラフルな誌面とともに提供します。