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津田梅子~わすか6歳で官費留学、女子教育に捧げた生涯

2017年09月14日 公開

歴史街道編集部

津田梅子

津田梅子が津田塾大学の前身・女子英学塾を創立

今日は何の日 明治33年9月14日

明治33年(1900)9月14日、津田梅子が女子英学塾を創立しました。津田塾大学の前身です 。

梅子は元治元年(1864)、幕臣・津田仙の次女として、江戸牛込に生まれます。父の仙は維新後、失職しますが、明治4年(1871)に北海道開拓使の嘱託となりました。そして女子教育に関心を持っていた開拓使次官・黒田清隆の企画した女子留学生に、梅子を応募させます。この時、選ばれた官費留学生の少女は5人。上田悌16歳、吉益亮14歳、山川捨松11歳、永井繁子10歳、そして津田梅子は最年少の6歳でした。

一行は岩倉使節団に随行して渡米、サンフランシスコを経て、12月にはワシントンに到着しています。梅子はワシントン郊外のランマン夫妻のもとで、現地の初等・中等教育を受け、アメリカの生活文化を体験しながら日々を送りました。英語やピアノを学び、日本に出す手紙も英語で書くようになります。

明治6年(1873)、10歳の時に自ら教会で洗礼を受けました。明治11年(1878)には私立の女学校・アーチャー・インスティチュートに進学。語学、英文学、自然科学、心理学など幅広い知識を学び、明治15年(1882)に卒業。同年に19歳の梅子は帰国しています。しかしアメリカで多感な少女時代を送った梅子にとって、当時の日本はギャップが大きかったようで、特に男女の差に驚きました。

明治18年(1885)には旧知の伊藤博文の推薦で、華族女学校で英語教師として教鞭を執ります。梅子には留学させてくれた日本に恩返しをしなければ、という思いもありました。しかし3年後、来日したアメリカ時代の友人アリス・ベーコンの勧めもあり、明治22年(1889)に再び渡米留学をします。時に梅子、26歳。

フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジで生物学を専攻した梅子ですが、友人のアリスが日本女性の研究をしていたことがきっかけとなり、次第に日本の女性教育への関心を高めていきます。指導教官のモーガン教授が、後にノーベル生理学・医学賞を受けた論文の前書きに、「この論文が書けたのは津田梅子のおかげである」と記すほど生物学の研究にも熱心だった梅子ですが、明治25年(1892)に研究の継続を勧める教授を振り切って、帰国しました。その時の梅子には、日本の女性教育に力を入れることで女性の地位向上に貢献し、日本の社会を近代化させたいという思いが固まっていたのです。そしてそれが、日本への恩返しになると考えていたのでしょう。

帰国した梅子は、再び華族女学校に勤めるとともに、明治女学院でも講師を務め、明治31年(1898)には女子高等師範学校の教授を兼任しました。その頃の梅子は、こう語っています。「文化、教育、経験がなくては、理想的な妻や母にはなり得ない」。これは女性が社会で男性と競争することが女性の自立であるとする考え方とは異なり、女性が男性の知的、精神的な協力者になることが、日本の発展に貢献する道であるとするものでした。そしてそうした考え方を基盤に、明治33年(1900)、官職を辞した梅子は多くの協力者を得て、東京麹町に「女子英学塾」を創立、塾長となりました。

開学式で梅子は語ります。真の教育には、教師の熱意、学生の研究心が大切であること、また学生の個性に応じた指導には少人数教育が望ましいこと、さらに人間として女性としてオールラウンド(all-round)でなくてはならないこと。この精神は、現在の津田塾大学の教育精神として受け継がれています。

その後、健康が優れなくなった梅子は、経営基盤が整ったところで大正8年(1919)に塾長を辞任、闘病生活の末に昭和4年(1929)に没しました。享年64。女性は男性の競争相手ではなく、協力相手であるという発想は、今こそ大切にすべきものかもしれません。

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