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杭瀬川の戦い~嶋左近の采配ズバリ! 西軍が関ヶ原前哨戦を制す

2017年09月14日 公開

歴史街道編集部

関ケ原、島左近陣地

杭瀬川の戦い。嶋左近、明石掃部が大奮闘

慶長5年9月14日

慶長5年9月14日(1600年10月20日)、杭瀬川の戦いが行なわれました。翌日の関ヶ原合戦の前哨戦として、よく知られます。

9月14日、徳川家康が東軍の美濃赤坂岡山に着陣、石田三成ら西軍主力が拠る大垣城と対峙することになりました。岡山の本陣に金扇の馬標と、家康の旌旗が立ち並ぶのを見て、西軍に動揺が走ったといわれます。ただ、三成は数日前の書状で、「東軍は何かを待っている様子」という意味の内容を書いており、それが家康であることは察していた可能性があります。もしそうであれば、少なくとも西軍首脳は家康着陣を想定していたはずで、あとはどこで決戦を行なうかが問題であったのかもしれません。

とはいえ、末端の兵士たちは家康の登場に浮き足立っており、士気を鼓舞する必要がありました。 そこで三成の重臣・嶋左近が、自ら手勢(一説に500)を率いて東軍に局地戦を仕掛けることにします。これに、西軍の副将・宇喜多秀家の重臣、明石掃部が後備で加勢することになりました(一説に800)。

大垣城から北西に位置するのが、赤坂岡山の陣。そのほぼ中間を杭瀬川が流れます。嶋左近は一隊を笠木村付近の草むらに埋伏し、自身は杭瀬川を渡って東軍の中村一栄(かずひで)隊に近づくと、悠然と刈田を始めました。 この左近らの振る舞いが挑発であることは中村隊にもわかってはいましたが、目前の敵に黙っているわけにはいきません。中村隊から数名の兵が鉄砲を射かけ、左近らも応戦して、中村隊に死傷者が出ました。すると中村家の家老・野一色頼母(のいっしきたのも)助義が、一隊を率いて打って出ます。猛将で知られた野一色の攻撃に、左近らは踏みとどまることができず、算を乱して杭瀬川を再び渡り、対岸へと逃げました。

勢いづいた野一色隊は、杭瀬川を渡って追撃をかけます。しかし、これは野一色隊を渡河させるための左近の計略でした。頃合を見て、草むらに潜んでいた一隊が野一色隊の背後を襲い、不意を衝かれて慌てるところを左近らが反転して逆襲に転じ、大乱戦となります。野一色隊の苦戦を見た東軍の有馬豊氏は、一隊を急ぎ救援に差し向けました。野一色隊に加えて、有馬隊も引き受けることになった左近らは、一歩も退かずにこれを迎え撃ちます。そして有馬隊がやや優勢に嶋隊を押し始めたその時、有馬隊の横腹を猛烈な銃撃が襲いました。迂回して密かに接近していた明石掃部隊が痛打したのです。明石隊の合流によって形勢は完全に逆転し、乱戦の中で野一色頼母は、明石隊の浅香左馬助(浅賀三左衛門)に討たれました。中村隊が潰走し、有馬隊も危うくなったところで、家康から退却命令が出されます。

実は岡山の陣からこの戦いの一部始終を望見していた家康は、最初のうちは東軍が西軍を追い散らす様子に上機嫌でしたが、それが敵の計略であったことを悟ると激怒し、「大事の前、かかる小戦で兵を損じるとは何事ぞ」と叱咤したといわれます。東軍の退却に対し、嶋、明石両隊も深追いすることはせず、嶋隊の林半介と明石隊の稲葉助之允が悠々と殿軍を務めて撤収、杭瀬川の戦いは西軍の大勝利となりました。

関ケ原の前哨戦は、まさに左近の読み通りとなり、西軍将兵の士気も大いに高まることになったのです。

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