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渡辺崋山と蛮社の獄~多彩な才能をもつ先覚者を襲った悲運

2017年10月11日 公開

歴史街道編集部

渡辺崋山

蛮社の獄により渡辺崋山が没

今日は何の日 天保12年10月11日

天保12年10月11日、渡辺崋山が没しました。三河国田原藩家老で、画家としても著名で、蛮社の獄で運命を狂わせたことでも知られます。

崋山は寛政5年、江戸麹町の田原藩邸において、藩士・渡辺定通の長男に生まれました。定通は留守居添役仮取次で15人扶持。崋山は幼名、源之助、後に虎之助と名乗ります。8歳で若君のお伽役となり、藩主から登の名を賜ることになりますが、父親が病にかかって家計は逼迫し、食事にも事欠く有様で、弟や妹は次々に奉公に出されていきました。少年の崋山は少しでも家計の足しになればと得意の絵を描いては売り、後に谷文晁に入門して、20歳代半ばに画家として知られるようになり、ようやく家計が安定したといわれます。その一方で崋山は学問に励み、18歳から昌平坂学問所に通って佐藤一斎の薫陶を受け、また佐藤信淵からは農学を学びました。

天保3年(1832)、崋山は40歳で家老(年寄役末席)に就任。本音は画業に専念したかったようですが、有能な崋山を藩は放ってはおきません。紀州藩難破船の浮荷(流木)掠め取り事件をはじめ、幕府に命じられた新田干拓、助郷免除など、難しい案件を解決していきます。また救民のための義倉(食料備蓄庫)「報民倉」を設置し、天保7年(1836)から翌年の天保の大飢饉においては一人の餓死者も出さず、諸藩で唯一その功績を幕府より表彰されました。さらに当時、沿海に外国船が頻繁に姿を見せることから、崋山は外国船の旗印を描いて沿海の村々に配布し、海岸の防備や見張りにあたらせています。

天保の大飢饉を切り抜けた崋山でしたが、飢饉対策の重要性は一藩に留まるものではないとの認識から、飢饉問題を協議する藩を超えたグループ「尚歯会」に参加します。メンバーは高野長英、小関三英、江川英龍、川路聖謨など、シーボルトに学んだ鳴滝塾出身者や、蘭学を学んだ者が中心ですが、主宰する紀州藩の遠藤勝助は儒学者でした。崋山は飢饉もさることながら、30歳代の頃から外国事情にも関心を持っており、高野や小関、江川らとは前から交流があって、外国に対する知識は豊富でした。自然、尚歯会で行なわれる議論も、飢饉対策や蘭学研究の話題だけでなく、政治や経済、国防問題にも及び、外国船打払い令や鎖国の是非まで問うに至ります。

こうした当時一流の知識集団を、自らのブレーンとなすことを考えたのが幕府老中の水野忠邦でした。一方、幕府内でこれを快く思わなかったのが、朱子学を司る林家出身の目付・鳥居耀蔵です。天保9年(1838)、鳥居は江戸湾測量をめぐって、尚歯会メンバーの江川と対立。江川に敗れたことを遺恨とした鳥居は密偵を放ち、尚歯会メンバーの崋山らが無人島渡航を計画しているとして、翌天保10年5月、崋山、高野ら10数名を捕らえました。ほどなく渡航の疑惑は晴れたものの、家宅捜索で崋山の「慎機論」の草稿が発見され、また高野の著作「戊戌夢物語」ともども幕政批判を行なったという理由で、崋山は蟄居、高野の永牢に処されました。また小関三英は捕縛前に切腹しています。鳥居が尚歯会を蔑視して蛮社と称したことから、一連の事件は「蛮社の獄」と呼ばれました。

国許に蟄居となった崋山は困窮し、それを案じた門人の福田半香らが、崋山の絵を売ることで崋山の生計を助けようとします。また崋山自身も国許で名作とされる作品を次々と生み出しますが、そうした活動を幕府が「罪人身を慎まず」と問題視しているという風評が立ち、崋山は藩主に迷惑が及ぶことを恐れて、天保12年(1841)10月11日、「不忠不孝渡辺登」と大書し、息子に「餓死するとも二君に仕ふべからず」の遺書を残して切腹しました。享年49。幕府問題視の風評は、藩内の反崋山派がわざと起こしたものという説もあるようです。多彩な才能を持っていた崋山ですが、維新に向けての先覚者の一人といっていいのかもしれません。

iyashi

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