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伊東甲子太郎~油小路事件で斬殺された新選組元参謀の真意とは

2017年11月18日 公開
2022年05月18日 更新

11月18日 This Day in History

伊東甲子太郎外数名殉難之跡
伊東甲子太郎外数名殉難跡(京都市下京区)
 

油小路事件。伊東甲子太郎ら御陵衛士が新選組に討たれる

今日は何の日 慶応3年11月18日

慶応3年11月18日(1867年12月13日)、京都油小路で伊東甲子太郎をはじめとする4人の御陵衛士が新選組に討たれました。油小路事件として知られます。御陵衛士は新選組から分離した一派で、伊東らは裏切り者とみられることが多く、新選組を描く作品などで、良く描かれることはまずありません。今回は、伊東という人物について、少し紹介してみます。

伊東は天保6年(1853)、常陸国志筑の本堂家の郷目付・鈴木専右衛門の長男に生まれます。鈴木大蔵と称しました。弟に、ともに新選組に加入する三木三郎(鈴木三樹三郎)がいます。やがて父親は本堂家を離れ、大橋村で漢学塾を開きますが、伊東が18歳の時に他界。伊東は水戸に出て、神道無念流の剣術を学びます。尊王攘夷の本山ともいわれる水戸での生活で、伊東も「尊王敬幕」(天皇を尊び、幕府を敬う)の思想になじんだことでしょう。

その後、江戸に出て、深川佐賀町の北辰一刀流・伊東精一郎道場に入門。腕が立った伊東は塾頭となり、師範代に中西登、内海次郎がいました。藤堂平助もこの頃、出入りしていました。いずれも後に新選組に入隊します。文久3年(1863)頃、道場主・伊東精一郎の死去に伴い、伊東の娘の婿となって、伊東姓に改め、道場を引き継ぎました。

元治元年(1864)、新選組が京都池田屋で武名を挙げた年、筑波山では水戸天狗党が横浜鎖港、尊王攘夷を掲げて挙兵。水戸時代に彼らと知り合っていた伊東も誘われたようですが、加わりませんでした。同年秋、新選組副長助勤の藤堂平助の誘いを受けて、伊東は道場を閉めて数名の同志とともに、新選組に加入、上洛します。この時に甲子の年に合わせて、名を甲子太郎に改めました。一説に、藤堂はこの時すでに幕府を支える近藤勇を見限り、伊東を新選組に引き入れて新選組を奪うことを考えていたともいわれますが、池田屋事件の直後で、新選組の勢いが高まっている時だけに、考えにくいように感じます。そもそも伊東の思想が水戸藩に近い「尊王敬幕」「攘夷」であれば、近藤らとさほど変わりません。ただ、水戸藩の尊攘激派の、幕府の命令よりも天皇を重んじるという思想に近かったとすると、攘夷では共鳴しても、朝廷への対し方で違いがあったのかもしれません。

新選組では参謀を務めた印象の強い伊東ですが、入隊早々は副長助勤でした。 歴史評論家の相川司さんは、伊東は新選組における出役(出張機能)を掌握する立場で、京都以外の畿内や周辺国の探索や訴訟に従事したのではないか、というユニークな説を唱えています。仮にそうだとすると、他藩との折衝を行なったり、長州征伐の折に伊東が近藤に随行して、広島まで赴いたことも、その流れで考えられるのかもしれません。

伊東が参謀に就任するのは慶応2年(1866)のことでした。隊内におけるNo.3のポジションですが、とはいえ参謀とは普通、将のスタッフであって、指揮権はありません。ラインは副長の土方歳三が一元管理していました。再び相川さんの説では、参謀の伊東は、諸士調役(探索)の統括をしていたのではないかと推測しています。薩長同盟が結ばれ、倒幕派の動きが強まり始めた時期ですので、そうしたことも可能性はありそうです。これが御陵衛士への伏線にもなるのでしょう。

伊東が新選組から分離するのは慶応3年(1867)3月のことでした。離脱ではなくあくまで分派で、外から新選組を支援する目的であると伊東は近藤・土方を説得したといいます。 土方はそれが詭弁であると考え、密かに斎藤一を密偵として、伊東一味に参加させました。 伊東らは崩御された孝明天皇の御陵を警護する「禁裏御陵衛士」に任ぜられ、はじめ善立寺、のちに高台寺月真院に屯所を置きます。伊東は近藤・土方には、あくまで新選組のための情報活動としながら、各地に出向いて勤王の遊説を行ない、大宰府では中岡慎太郎に面会して、新選組から離れたことを強調しました。果たして伊東の真意はどちらだったのでしょう。二重スパイのようにも映ります。

ただ10月の大政奉還後に伊東が示したという建白書には、「大開国、大強国」という大方針のもと、新政権には徳川家も参加させるという、坂本龍馬などの公議政体論に近い考え方を示したといわれ、かなりの見識の持ち主と見ることもできそうです。もし従来いわれているように伊東は新選組乗っ取りに失敗したため、離脱して、倒幕方に接近したのが御陵衛士というものではなく、実は伊東は嘘を言っておらず、あくまで新選組、佐幕派に軸足を置きながら、倒幕派と接触して融和しながら新政権の姿を模索していたのだとしたら? そう考えてみると、伊東甲子太郎という人物の別の側面が見えてきそうにも感じます。

そうした伊東のスタンスは、新選組には理解しにくかったのかもしれません。裏切りと断じられ、新選組が刺客となった時、一説に伊東は「冗談めさるな」と言ったといいます。従来の説では「奸賊ばら!」ですが、果たして伊東の真実はどちらなのでしょうか。

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