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西郷隆盛はなぜ、西南戦争に敗れたのか

2018年08月06日 公開
2023年01月19日 更新

瀧澤中(作家/政治史研究家)

田原坂
西南戦争最大の激戦地、田原坂の現在
 

帝国陸海軍と西郷軍の奇妙な一致点

西南戦争での西郷軍の純軍事的な失敗は、そのほか個々の戦場での戦い方など指摘があるが、筆者が最も注目したのは、別の視点である。

一度、西南戦争を忘れて、頭を真っ白にしてから以下を見ていただきたい。

ある軍の、長所・短所を述べている。

【長 所】
・軍隊の士気、極めて旺盛
・軍隊の行動、極めて敏活
・軍隊の訓練、よく行き届いている
・将卒は駿勇で、冒険的精神に富んでいる
・将校の技量は優秀で、力がみなぎっている
・将校と兵の関係は親密で、苦楽を共にしている……など

【短 所】
・兵力が不十分
・武器が不足している
・弾薬が不足している
・軍資金が不十分
・糧食が不十分
・輸送システムが不完全……など

多くの読者はこれを、大東亜戦争中の大日本帝国陸海軍にあてはめたのではなかろうか(将校の技量や将校と兵の関係などは、一概に良好とは言いがたいが)。

答えを先に言えば、これは西南戦争の時の、西郷軍のことを指している。

出典は、民族主義団体の草分けとも言うべき玄洋社系の黒龍会が、明治42年(1909)に編纂した『西南記伝』。この指摘はまさに、その後の帝国陸海軍を彷彿とさせる嫌な予感に満ちている。

ちなみに「長所」「短所」と書いた部分は、『西南記伝』では、長所→「精神的要素」、短所→「物質的要素」となっている。

西郷軍は精神的には優っていたが、物質的には不十分であった。だから戦いに敗れた、という結論である。

出版者である黒龍会の創設者・内田良平や顧問の頭山満は、西郷に極めて好意的であった。頭山に至っては西南戦争の前年に起きた萩の乱に呼応しようとして捕まり、獄中で西郷蹶起を聞いた。ここで頭山は西郷軍に参陣できなかったのを大変悔しがったことからもわかる通り、西郷と西郷軍に対する思いが強い。

その黒龍会の編集をもってしても、西郷軍の物質的な敗北の要素を排除できなかったのである。
 

倍の兵力以上に深刻だった問題

西郷軍と政府軍の兵力差は、西郷軍2万4000に対し、政府軍は5万2000。

しかし兵力よりも深刻だったのは、武器の優劣である。

たとえば大砲。

政府軍は飛距離のある野砲を30門装備していたのに対し、西郷軍はわずかに2門。熊本城攻撃などで役立った臼砲こそ西郷軍は政府軍とほぼ同じ数を持っていたが(西郷軍29門、政府軍30門)、最も実戦で効果のあった山砲は、政府軍の47門に対し、西郷軍は28門を数えるのみであった。

小銃については、西郷軍側の正確な記録が残っていないので不明だが、弾薬に関しては、西郷軍の製造能力が1日5000発前後だったのに対し、政府軍は、日産30万発にも及んだ。

よって西郷軍は、弾薬不足のため政府軍の撃ってきた弾を拾って再利用したり、あるいは樫の木を原料にした弾までつくった。

不足は、武器や弾薬だけではない。

兵員、食料をはじめとする物資、軍資金、いずれも戦争半ばに至る前には、かなり厳しい状況に追い込まれた。

さらに重要なことは、政府軍は当初から制海権を握っていて、艦砲による攻撃だけではなく兵員輸送の機動力や補給についても、圧倒的に有利であった。西郷軍は、そもそも大量の兵員を輸送する手段を確立できなかったから、東京や大阪を船で急襲する策に出られなかったわけである。

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