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なぜ「織田信長の二男と三男」は後継者になれなかったのか?…信雄と信孝の争いと“その後”

2021年02月15日 公開
2022年07月28日 更新

谷口克広(戦国史研究家)

 

変の直前、どこでなにをしていたか

天正9年9月、信雄は伊賀討伐軍の主将を務めた。総勢四万余といわれる織田軍は、四方より攻め込み、たちまち伊賀を平定した。

信雄は2年前、父に無断で伊賀に出兵して敗戦し、重臣を討ち死にさせて父から厳しい叱責を受けたことがある。圧倒的大軍による当然の結果とはいうものの、何とかその恨みを晴らしたわけである。

その後の信雄は、何の戦績もない。本能寺の変直前には、居城の伊勢松島に居た。

信孝のほうはどうだったか。

天正10年(1582)5月、信孝は四国の長宗我部元親討伐の命令を受けた。この任務は、信孝が父に要請した結果のようだが、信長にしても、信孝の将才を認めた上での人事であろう。

老練な部将の丹羽長秀・蜂屋頼隆、それに従兄弟にあたる津田信澄が副将として補佐することになった。信孝は、総勢1万4千といわれる大軍を率いて同月末に大坂・堺近辺に着陣、渡海の機会を待っていた。

 

変報に接しても、めぼしい活躍はなく…

京都で変が起こったのは、6月2日の早朝である。その報は、松島にも、大坂近辺にも、その日のうちに伝わったであろう。

信雄は変報を受けるや松島城を出発、すぐに伊賀経由で近江土山まで出陣した。しかし、四国討伐軍に兵を提供していたため、軍勢は少ない。そこにとどまっているうちに伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、さらに西へは進めなかった。日野へと避難した織田一族を支援するのが関の山だったのである。

四国討伐軍には、昼過ぎ頃第一報が届いたものと思われる。大坂から堺にかけて広がっていた陣中はたちまち混乱に陥った。そして、大半の兵が陣から逃亡してしまったという。

信孝の譜代の軍兵はほんの僅か、ほとんどが寄せ集めの軍勢だったから統制がとりにくいのはわかるが、老練の丹羽たちが側にいて何の方策もとれなかったのだろうか。

四国討伐軍の副将の一人、津田信澄は、明智光秀の娘婿である。大坂城の千貫櫓に居た。

信孝は丹羽と相談し、5日、これを襲って殺害した。光秀方になるのを警戒してのことだろうが、ただ疑心暗鬼にとらわれただけの行動だったようである。

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