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少年法は改正すべきか

2015年04月10日 公開
2023年01月12日 更新

小浜逸郎(批評家)

勉強に向かない子の大人化への道

 また、平均寿命が延び、そのぶんだけ大人になるのに時間がかかるようになったということがよくいわれます。もしこれが事実なら、法的な「成年」年齢を下げることは、一見時代の流れに逆行するように思われます。

 たしかに大人になるのに時間がかかるようになったというのは、ある意味で本当ですが、それは、平均寿命が延びたからではありません。そもそも何をもって大人になったというのか、あるいは何が人を大人にするのかというように考えていくと、これは社会的動物である人間の場合、単純ではないことがわかります。

 私は「大人」概念を、生理的大人、心理的大人、社会的大人の三つに分けています(詳しくは拙著『正しい大人化計画』ちくま新書)。これらは相互に絡み合う関係にありますが、文明が進めば進むほど、生理的大人と社会的大人とが乖離していきます。つまり生理的には思春期を通過すればすぐ大人になってしまうのですが、社会の仕組みが複雑になるにしたがって、学習期間が延び、親から経済的・精神的に自立するのに時間がかかるようになるのです。また、職業人や家庭人としての責任を果たせるようになるのにも長い期間が必要とされます。

 この事実は何を意味しているでしょうか。人間の成熟には、社会のシステムや制度のあり方に応じて時間がかかったり、逆に早まったりする可能性があるということです。

 さてこのことを、先の法的な「少年」と「成人」の境をどこに置くかという問題に当てはめてみましょう。くだんの少年は、「札付きのワル」であったことは間違いないようですが、それは生理的には立派な大人になっているのに、社会的な意味で大人として見なされていなかった、または大人になる気がなかった、ということと重なり合うのではないでしょうか。よく暴走族のOBなどが、後輩に向かって「いつまでもガキやってんじゃねえよ!」などと説教する例がありますが、この少年も、生理的な大人でありながら、社会的には「ガキ」でしかなかった、そのギャップがあまりに大きかったといえそうです。つまり、学校という間延びした現代版通過儀礼の場所と時間帯にまったくなじめなかったために、社会的な大人になるきっかけを失っていたのです。

 この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。

 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。

 以上が、少年法適用年齢を18歳にまで引き下げたほうがいいと考える理由です。

 

ネット社会にはびこる非寛容

 (2)のネット情報の氾濫の問題についてですが、いまさらこの流れを押し戻すことはできないでしょう。しかもインターネットの普及のおかげで助かることがずいぶんあります。現にいまこの原稿を書いている私は、依頼があるまで今回の事件のディテールやそれがどう語られているかについてほとんど知りませんでしたが、知人が送ってくれたいくつものサイトによってその全貌をほぼ知ることができました。

 「知る権利」などという言葉はあまり使いたくありませんが(この抽象的な言葉をタテにとって悪用する人もいるので)、何かをより深く正確に知る必要がある場合に、紙による情報だけでは限界があり、時間や手間やお金もかかるので、信頼のおけそうなネット情報に頼らざるをえないというのは否定できない事実です。これを強く規制している国がどんな国かを思い浮かべてみれば、その恩恵の面を無視することはできません。

 独裁国家や巨大マスコミが意図的に、または意図的ではなくともその体質上、情報の操作や選択をして、真実が隠されたり捏造されたりするということはいくらでもあることですね。そういう疑いのあるとき、信頼のおけるネット情報はたいへん役に立ちます。

 しかしもちろん、ネットによるこの情報獲得能力の民主化には、よくない面もあります。1つは冒頭で述べたように、事件と直接関連のない不必要なプライベート情報がすぐに出回ってしまい、迷惑をこうむる人がたくさん出る可能性があることです。今回の事件でも、容疑者が逮捕される前に、「あいつがやったんじゃないか」という憶測情報が広く出回ったそうです。捜査に協力するという明確な意思をもって、警察に極秘にヒントを知らせるというのならいいですが、まったくそうではないので、たいへん困ったことです。これは一般に、風評被害の可能性が格段に高まったことを意味します。

 もう1つは、誰もが何かについての感想・意見・主張を瞬間的に発信できるので、問題をよく考えもしない感情的な表現がやたらと出回ることです。これは二重の意味でよくありません。第一に、発信者自身に冷静に考える習慣や母国語をきちんと使いこなす能力が身に付かず、その結果、精神的成熟が妨げられること。第二に、物事に対する単純化された把握がまかり通って、それが一種の「党派性」を形成し、異論に対して聴く耳をもたない非寛容がはびこることです。これが高ずると、全体主義的な権力にまで発展しかねません。歴史上、悪名高い全体主義というのは、皆こうした大衆社会の空気を基盤として生まれています。このほかにも、よくいわれるように、匿名性を利用してある人を集中的に誹謗中傷することができるという点も挙げられます。

 ではどうすれば、こうしたネット環境の悪い面を防ぐことができるか。これはたいへん難しい問題ですが、要するに発信主体、受信主体がそれぞれの立場で公共心を高めていく以外にないでしょう。それはある場合には、自主規制のかたちをとり、ある場合には発信者に対する批判や啓蒙のかたちをとることになります。しかしその場合でも、ネット環境で何が起きているかを知らないで済ませるというわけにはいきません。

 私たちはいま、情報倫理学ともいうべき分野を構築する必要に迫られているのですが、そのためにはやはりネットを大いに活用して現実感覚を高めなくてはなりません。これは、交通事故を減らす有効な手立てを考案するためには車の運転に慣れる必要があるのと同じです。今回の事件でもネット空間にずいぶん感情的・衝動的な表現が乱舞しましたが、あくまでもこれらの「敵」の姿をよく知ることを通して、ネット環境に対する成熟した理性的な態度を養うべきだと思います。

著者紹介

小浜逸郎(こはま・いつお)

批評家

1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。 2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。現在、批評家。国士舘大学客員教授。著書に、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)、『デタラメが世界を動かしている』『13人の誤解された思想家』(以上、PHP研究所)など多数。

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