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日本人だけ?非礼?「両手握手はみっともない」

2016年02月01日 公開
2016年11月11日 更新

勢古 浩爾(エッセイスト)

言葉だけでへりくだる

 

 テレビを観ていて感じるもう一つの違和感がある。「させていただく」という言い方が頻繁に使われるようになったことである。「聞かせていただく」「読ませていただく」「伺わさせていただく」など。これは、むやみにへりくだる語法である。「わたしみたいな程度の低い人間は、本来ならそんなことをするのは畏れ多いことなのですが、まことに失礼なことながら、そのようにさせていただきます」といったところか。

 両手握手と同じように、このへりくだりの語法が、いつごろ、どこから広まった言い方かはわからないが、出所はやはり芸能界あたりではないかと推測される。時期的には、フェイスブック(2004年開始)やツイッター(2006年開始)の普及と同時期のような印象がある。要するに、せいぜいこの10年ほど、顕著になったのはここ4、5年のことではないか。「わたしたちは生きているのではない。生かされているのだ」といった謙虚な意識の広がりも関係ありそうだが。

 少しでも偉そうな言動をするとネットで叩かれるようになった。「炎上」という言葉もごく普通に使われるようになり、SNSなどのネットの影響力は無視できないほど大きくなった。人気商売の芸能人やスポーツ選手がネットでの反応を気にするのはやむをえない。自分の言動が「尊大」と受け取られないかと戦々恐々とした結果、形だけでへりくだる「両手握手」作法と、言葉だけでへりくだる「させていただく」語法が出現したのではないか。もともと芸能界には「お客さまは神様です」の土壌がある。行き届いた思いやりある行為は「神対応」として称えられ、素っ気ないぶっきらぼうな行為は「塩対応」として酷評されるのも、その流れなのか。いつの間にか、沢尻エリカまで丸くなってしまった。「尊大・傲慢」と見られないようにという意識は一般にも広がり、誰もが「萎縮」しているようにみえる。

「両手握手」や「させていただく」が広がるよりも前に、わたしは、どうも本(とくに評論分野)の文体に「です・ます調」が増えてきたなと感じていた。売れている本に多いようだなと思い、この傾向は現在も続いている。べつに「である・だ調」は偉そうだという風潮が広がっていた記憶はない。しかし「です・ます調」は、読者に媚びたり阿るというわけではあるまいが、明らかにへりくだっている。そのほうが読者に受け入れられやすい(すなわち、売れる)と考えた著者たちの一方的な自粛なのか。

 以前なら、世間に自分の考えや書評を発表できるのは、おおむね専門家に限られていた。しかしいまでは誰もがブログやSNSで、いとも手軽に自分の考えや意見を表明することができる。誰でも簡単にブックレビューで本の批評をすることができる。このことが「です・ます調」の採用に関係があるのかないのかわからないが、いまや本の書き手にとって批判の紙つぶて(ネットつぶて)は四方八方から飛んでくるのである。上司は部下を叱れない。企業も料理店も警察も低姿勢である。著者たちが、「わたしは偉くもなんともありません。少しでも読んでいただく人の参考になればうれしい」と低姿勢になってもなんら不思議ではない。ただし、文字面だけのへりくだりだけどね。

 昔は「出る杭は打たれる」といわれた。実力もないのに(あっても)はねっかえるな、という日本社会の戒めである。それが「出すぎた杭は打たれない」といわれるようになり、誰もが認めざるをえない圧倒的な実力をもつ人間になることが称賛された(「出すぎた杭は引き抜かれる」ともいわれたが)。が、いまでは「出る」前に自粛する。「出る」つもりは満々なのに、言葉や形の上だけで、「出るつもりは毛頭ありません」とへりくだる。企業は消費者からクレームが来ないように保険をかける。「これは個人の感想です。効能ではありません」と。テレビの解説者もまた、責任問題にならないようにけっして断定することはない。素人でもいえる、「かもしれません」ばかりを連発する。

 こっちがこんなに下手に出ているのに、あるいはフラットな応対をしているのに、それでもこちらを見下すようなエラソーな人間に対しては、その態度をとがめる言葉がある。「上から目線」がそれであり、これは「尊大・傲慢」な言い方を検閲する言葉である。ただしこの言葉も、ネット上での匿名発言なら「人間のクズ」だの「クソ」だのと容赦なく罵倒するところを、面と向かっていう言葉として婉曲的な表現に和らげられている(いまでは「上からだな」と省略されたりする。そのあとに「1回、謝っておこうか」と続く)。

 

植民地的根性丸出し

 

 この言葉が流行り始めたのも「両手握手」「させていただく」「です・ます調」と同じころではないかと思う。初めてこの言葉を聞いたときは、なんとまたばかな言葉かと思った。なにより、言葉自体が幼稚で薄汚い。ところが、この言い方はいまではもう完全に市民権を得たようである。とある店で、50半ばの嫌な顔のおっさんが、同年配の男相手に、この言葉を使っているのを見たときは、あんたは中学生かと驚いた。傍で話を聞いていると、そのおっさんは劣等感に屈折した奇矯なプライドの持ち主のようで、話の端々に暴力をちらつかせ、一言でいうと、ろくでもない男だった。

「両手握手」や「させていただく」などの「へりくだる」姿勢の他方で、テレビや本では「へりくだる日本」どころか、日本人の「おもてなし」や「やさしさ」の自慢、日本の技術力の高さの誇示、「クールジャパン」の押し付けなど、「自画自賛の日本」の主張が頻繁である。欧米に対する日本のテレビマスコミの劣等感は昔からである。以前は「世界のミフネ(三船敏郎)」といい、いまでも「世界のキタノ(北野武)」や「世界のオザワ(小沢征爾)」などといいたがる。何が「世界の」だ。知ってか知らずか、いまだにマスコミはこのような植民地的根性丸出しの言い方をやめようとしない。

 ノーベル賞を日本人が受賞するのはうれしいことだが、報道量はいささか常軌を逸している。2014年度のノーベル賞取材に世界から集まった取材陣は150人ほどだったが、そのうち100人が日本の取材陣だったという。前からおかしいと思っていたんだ。欧米でも自国の受賞者が出ると、テレビで臨時ニュースが流れ新聞の第一面で報じられるものなのか、と。以前は世界主要国の首脳たちが集まる会合の記念撮影で、テレビでは、わが国の首相がどの位置に立つのかが取りざたされたものである。「またはじっこかよ」と嘆き、「今回はついに中央近くに立ったぞ」と安堵したりしていたのだ。

 わたしたちが国としても個人としても、上から下まで求めているのは、じつは、自分のエゴ(プライド)を満足させてくれる他国・他人からの尊敬である。それも「尊敬」は鈍重らしく、現在では「リスペクト」という言葉のほうが通りがいい。「両手握手」は形だけのへりくだり、「させていただく」は言葉だけのへりくだり、「です・ます調」は文字面だけのへりくだりにすぎない。日本人の優秀さの露骨な自画自賛は、ただのうぬぼれである。いずれも自分や自国が、他人や他国からどのように見られているかが気になってたまらず、いい人間いい国として認めてもらいたいという意識の表れである。

 わたしも、日本人は全体としては優秀であると考える。秩序を守り、向上心があり、勤勉だ、というのはほんとうだと思う。親切で控えめで気配りができる。繊細な感覚をもち、暴力的ではない。しかしこれらの美点も裏を返せば、おとなしく従順で大勢順応ということになる。同調強制型で非寛容でこすっからくて付和雷同的で、そのくせ幼稚な形式主義でもある。個人であれ国家であれ、プライド(自尊心)をもつことは必要である。けれどプライドはこれ見よがしに相手に押し付けるものではない。静かに内にもつものである。なんだろう、日本代表チームのあの「サムライジャパン」だの「なでしこジャパン」といった形式的な愛称の蔓延は。「ポセイドン」「火の鳥」「龍神」「フェアリー」「マーメイド」などなど20近くもあり、選手たちが「わたしたち(おれたち)にもあんなのがほしい」と訴えるそうである。ゆるキャラブームなど、もうわけがわからない。

 

お姫様のつもりか

 

 と、長々と書いてはきたが、以上は当たるも八卦当たらぬも八卦のような、かなり無理やりな辻褄合わせである。日本社会に潜む一現象の意味を明らかにしてみました、というつもりはさらさらない(と、わたしもへりくだる)。というのも、「上から目線」という言葉だけは一般に広まったといっていいが、「両手握手」作法も、「させていただく」語法も、わたしが思っているほど一般には広まっていないのではないか、という気がするからである。異常なほどテレビを観ているわたしが、テレビに映る人気商売の公的な人物たちがやっていることに違和感をもち、そのことだけで、それがあたかも社会全般で見られる現象であるかのような錯覚に陥っただけの話かもしれないと思わないでもない。

 もともとは、単純である。「生まれてきてくれてありがとう」とか、「感動をありがとう」とか、「元気をもらいました」とか、「応援よろしくお願いします」とか、「ガンバー」とか、「メッチャ」とか、「ヤンチャ」といった言葉がじつに聞き苦しいというのと同じで、両手で包むあの握手の仕方はいかにも見苦しい、片手でやれよ、といいたいだけである。わたしはいい意味で古い人間だから、いまだにこのような言い方や行為になじむことができない。なじむつもりもない。

 握手をしながら、頭を下げるのはみっともない。あれはやめましょう。もっとも、外国人にも握手をしながらつられて頭を下げる人が散見されるようになっているが、それはかれらの思いやりである。日本人だけが思いやりに長けているわけではない。握手をするとき、これは女の人に多いのだが、手を差し出すだけでまったく力を入れない人がいる。握り返すのは下品とでも思っているのだろうか。それとも、お姫様のつもりなのか。こちらとしては、何かの生肉を握っているようで気持ちが悪い。軽く握り返しましょう。

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