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放送法論争、国民は怒っている

2016年06月17日 公開
2022年11月09日 更新

潮匡人(評論家/拓殖大学客員教授)

テレビ局には自由に番組を編成制作させるべきだ!

古舘キャスターの最後っ屁

 古舘伊知郎キャスターがテレビ朝日の看板番組「報道ステーション」を降板した。最後の出演となった3月31日「『いわゆる』が付く。『事実上』を付けなくてはいけない。『みられている』といわないといけない。(中略)二重三重の言葉の損害保険をかけないといけない」と表現の不自由さを愚痴った。

 だが本当にそうか。古舘MCは「言葉の損害保険」をかけてきただろうか。最近の放送を振り返ってみよう。

 直近では3月29日の平和安全法制の施行を特集した当夜の番組で「廃案にするものは廃案にすると。それくらいの気構えで国会はやってほしいですね」と明言した。「いわゆる」「事実上」「みられている」といった“言葉の損害保険”はかけなかった(詳しくは月刊『正論』6月号拙稿参照)。舌の根も乾かぬ2日前の放送にして、かくの如し。

 3月18日は「独ワイマール憲法の“教訓”『緊急事態条項』に警鐘」と題し「将来、緊急事態条項を悪用するような想定外の変な人が出てきた場合、どうなんだろう、ということも考えなければという結論」を掲げて自民党の憲法改正草案を批判。「ワイマール憲法の『国家緊急権』の条文が、ヒトラーに独裁への道を与えてしまった」「ヒトラーの国家緊急権行使を後押ししたのが保守陣営と財界だった」とドイツからリポートした。安倍総理をヒトラーに、自民党をナチスに例えた、悪意と敵意に満ちた偏向である。

 東日本大震災から5年を迎えた3月11日の番組では、福島の子供の甲状腺がんの現状を特集した。県の調査結果について「異常に多い」とし、原発事故との「因果関係がないというのは甚だ疑問」「因果関係があるんじゃないかという前提で、じっくり探っていくプロセスが必要ではないか」とコメントした。

 古舘MCは最終日「圧力がかかって私が辞めさせられるということは、一切ございません」と明言しつつ「ただ、このごろは報道番組で、昔よりも開けっぴろげにいろいろな発言ができなくなりつつあるような空気は私も感じています」と付言した。

 本当にそう感じていたのか。十分すぎるほど「開けっぴろげにいろいろな発言」を重ねてきたMCの感想とは思えない。続けて、こうも語った。

「この番組のコメンテーターで、政治学者の中島(岳志)先生が、こういうことを教えてくれました。『空気を読むという特性が人間にはある。昔の偉い人もいっていた。読むから、一方向にどうしても空気は流れていってしまう。だからこそ、半面で、水を差すという言動や行為が必要だ』。私はそのとおりだ、と感銘を受けました。つるんつるんの無難な言葉で固めた番組など、ちっとも面白くありません。人間がやっているんです。人間は少なからず偏っています。だから情熱をもって番組を作れば、多少は番組は偏るんです」

 まさに最後っ屁。悪質な開き直りである。そもそも以上の偏向が「多少」の偏りといえるだろうか。古舘MCは昨年12月の降板会見でも「偏っているといわれたら、偏ってるんです、私。人間は偏っていない人なんていないんです」と放言した。もはや放送法に対する自爆テロに等しい。

 人間が偏るのは自由だが、番組が偏るのは自由でない。放送法に違反する。人間には基本的人権がある。なかでも精神的自由は立憲民主政の過程に不可欠であり経済的自由より優越的地位を占める(通説判例)。だが、放送局は法人であって人間ではない。「人権は、個人の権利であるから、その主体は、本来人間でなければならない」(芦部信喜『国家と法Ⅰ』放送大学教材)。人間と法人は違う。もとより人間は少なからず偏っている。だからといって、報道番組の偏向が許される理由にはならない。

 

TBSの逆ギレ、卑怯な開き直り

 さらにいえば、「空気と水、これは実にすばらしい表現と言わねばならない」と鋭く指摘したのは山本七平である(『「空気」の研究』文春文庫)。身内の「中島先生」ではなく「山本先生の古典的名著を読み、あらためて感銘を受けた」と本家本元を援用すべきであろう。そうしなかった理由はなにか。山本七平が、薄っぺらなリベラルと対極に立つ“保守”だったからか。ならば放送法以前の問題として、言論において遵守すべきコード(倫理)を踏みにじっている。

 だが御本人に、その自覚はない。「私の中で育ててきた“報道ステーション魂”を、後任の方々にぜひ受け継いでいただいて」云々、生放送で公然と引き継ぎながら「“しんがり”を務めさせていただいたかな。そういう、ささやかな自負をもっております」と付言した。なんとも不可解である。もし「報道ステーション魂」が後任者に受け継がれるなら“しんがり”を務めることは叶わない。反対に「しんがりを務めた」なら「報道ステーション魂」は消滅したはずである。最後まで無理難題をおっしゃるMCだった。

 最後っ屁をかましたのは古舘MCだけではない。NHK「クローズアップ現代」を降板した国谷裕子キャスター最後の放送となった3月17日の番組は、学生団体「SEALDs(シールズ)」を肯定的に取り上げた。国谷は、リベラル左派牙城の月刊誌『世界』5月号(岩波書店)に「インタビューという仕事」を寄稿。「日本の社会に特有のインタビューの難しさ、インタビューにたいする『風圧』といったものをたびたび経験することになった」と愚痴った。「空気」と同様「風圧」も反証不可能な表現である。よくいえば文学的だが、けっして知的ではない。

 3月25日、TBS「NEWS23」を降板した岸井成格アンカーも最後に「報道は極端な見方に偏らず、世の中の常識を基本とする。権力を監視するジャーナリズムを貫くことが重要」と訴えた。「監視」は結構だが、その岸井アンカーが昨年9月16日の放送で平和安全法制について「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と明言した。そこで昨年11月「放送法遵守を求める視聴者の会」(すぎやまこういち代表呼びかけ人)が意見広告を『産経新聞』と『読売新聞』に掲載。会はその後、岸井ら7名に公開討論も申し入れたが、田原総一朗を除き、拒絶した。岸井は逆に、同会を「低俗だし、品性どころか知性のかけらもない。恥ずかしくないのか」と記者会見で切り捨てた。

 株式会社TBSテレビの対応も酷い。同会が4月1日に出したTBSへの公開質問状を受け、4月6日「弊社スポンサーへの圧力を公言した団体の声明について」と題したプレスリリースを発表した。視聴者の会を「圧力を公言した団体」と敵意を込め指弾し「表現の自由、ひいては民主主義に対する重大な挑戦であり、看過できない行為であるといわざるを得ません」と逆ギレした挙げ句、何の論拠も示さず「公平・公正な番組作りを行なっております。放送法に違反しているとはまったく考えておりません」と開き直った。

 安倍政権や平和安全法制は自由勝手に揶揄非難するくせに、自身への批判は無視黙殺する。検証に耐えようとする謙虚な姿勢は微塵もない。TBSに限らない。地上波全国ネット報道番組の公式サイトはいずれも中身はスカスカ。既得権に胡坐をかきながら、批判や検証から逃げている。

 活字の世界は違う。書籍なら国会図書館に寄贈され、雑誌も大宅壮一文庫がある。だが、テレビの世界には図書館も大宅文庫もない。だから無責任な放言がまかり通ってしまう。安全なホームグラウンドでは「廃案」などと威勢よく叫ぶが、アウェイな場所には出かけない。高給に恵まれながら、交流試合は拒否する。テレビ人の姿勢は高潔や勇敢の対極にある。はっきりいえば卑怯、卑劣、卑屈極まる。

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