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参院選直前、17歳からみた主権者教育のあり方

2016年06月29日 公開
2017年03月21日 更新

岡部凜太郎(高校2年生男子)

デモクラシーの維持に不可欠なこと

 さらにいえば、十代の若者を立派な「主権者」にするには、その前にまず立派な「日本人」であるべきだ。

 政治上の諸問題や社会問題について考える際、われわれは当然、その問題が起きている〈場所〉を知らなければならない。たとえば、日本人は、遠いアフリカのアンゴラ共和国で起きている経済問題や保健問題などの課題について解決策を考え、現地の人びとに提示することは困難である。それは当然、日本人がアンゴラという国についてよく知らない、という理由に起因する。

 それと同じように日本という国家について何も知らずに日本の社会問題や課題について何かを論じることは、不可能である。

 主権者教育が日本という国家の問題を適切かつ真面目に考え、論じることのできる「主権者」を育成するのならば、それは必然的に日本という問題の発生場所を、深く教えなければならない。そして、日本を深く知るということは、日本の伝統、文化、歴史、地理を知ることであり、何より日本の国語を学ぶということである。

 現在、欧米ではグローバル化が進展し、それと並行して格差の拡大や難民の流入などさまざまな問題が指摘されている。そういったなかで欧米では「ナショナルなもの」への再評価が行なわれている。国民の同胞意識やナショナルな言語、文化、そしてそれらへの愛着(愛国心)が、じつはデモクラシーにおいては不可欠ではないか、という主張が盛んに唱えられているのである。

 たとえば、議会を運営する際、国民の同胞意識、国民同士の信頼感が醸成されていなければ、そもそも、共通の問題意識に基づく政治的議論をすることは不可能である。自身の利害には無関係な貧困層の撲滅や格差是正などの問題の解決を図ろうとしても、同胞が苦しんでいるから助けたいという意識がなければ成り立たない。

 現在でも、日本ではナショナリズム、愛国心はデモクラシーと敵対するものだ、という思潮が強いが、これはネーション(集合体としての国民)という枠組みがもつ意義について深く理解できていない言説だろう。

 そして、そのデモクラシーに不可欠な同胞意識、連帯意識は各自がもつ「共通の特徴」に由来する。具体的には同じ宗教や人種などが連帯意識を生むが、何より共通の言語というものがなければ、同胞意識は成立しえない。

 ヨーロッパのベルギーにはフラマン語圏、ワロン語圏、ドイツ語圏という3つの言語を話す地域が存在する。ベルギーは建国以来、異なる言語を話す国民同士がいかに連帯するべきか、という問題に苦心してきた。ベルギーが連邦制を採用している理由は、言語圏住民間の対立が激しく、中央集権制では国家の統一が困難であったからである。

 しかし、ベルギーは連邦制を採用した新憲法を制定した1993年以後も、政治的混乱がたびたび発生している。2010年の総選挙の際は、言語圏間の対立が激化し、540日以上にわたり、組閣が実施されないという異常事態が発生した。このベルギーの事例は、統一的な国語を有さない国家を運営することがいかに困難であるかを示している。

 今後、日本においてもデモクラシーを維持していくためには、じつは国語である日本語の伝統の保守こそがもっとも大切なことなのである。

 そのために、先ほども述べたように、国語教育に力を入れ、深い教養を兼ね備えた「良き日本人」を育成する必要があるだろう。

 しかし、主権者教育とその議論をめぐってはそういった論点がほとんど挙げられていない。このことはきわめて不可解である。

 

年長者の責任とは

 本稿では主権者教育を実施するにあたり、私なりに以下のような問題点を指摘した。

・イギリス発のシティズンシップ教育を直輸入したため、日本におけるデモクラシーの特徴である熟議という点がカリキュラム内で軽視されている点。

・主権者教育の最終的な目的である、健全なデモクラシーの運営のためには、日本の歴史、伝統、文化、国語とそれらへの愛着が不可欠であるにもかかわらず、そういった視点が欠けているという点。

 まず前者については、日本型の主権者教育、政治教育のあり方について、今後も政府、民間の大学、研究機関が検討し続けること。その際には、選挙や社会運動における市民の役割や権利だけでなく、政治とは何か、日本におけるデモクラシーとは何か、という広い視野で日本に合った主権者教育、政治教育を模索することが必要だろう。そうして徐々に主権者教育のあり方を日本に合ったものにしていくべきである。

 後者については、主権者教育の枠組みに国語教育や歴史教育なども入れる。とくに国語教育においては日本の伝統的な古典文学や思想哲学などについて、深く教えていくべきである。

 主権者教育とその議論全体を俯瞰した場合、外国流の教育方法を直輸入し、強引に日本の教育に当てはめているように私は感じる。冒頭で述べたように主権者教育は、まだまだ手探り段階であるし、それは当然なのかもしれない。とはいえ、現在の議論のまま、主権者教育が実施されていけば、日本のデモクラシーの健全な運営を促すどころか、むしろ暗い影を落とすことになりかねない。主権者たる日本国民の育成にはつながらないと思うからだ。

「青春の特権といえば、一言を以てすれば無知の特権であろう」という言葉は三島由紀夫のものであるが、若者は基本的に無知で、無鉄砲な存在である。そういった時期が許容されるのは十代の青春期のみであるから、三島は特権という言葉を用いたのだろうが、この無知は時として、自身や他者を傷つけることになる。

 そのようなときに、叱る、あるいは諭し、そして、失敗を許す道徳的立場にあるのが年長者であり、その行為の総体が教育であるはずだ。

 しかし、主権者教育、もっといえば昨今の教育論議には、どこか機械的でそういったあるべき年長者の視点が抜けているように感じてしまう。

 教育とは、たんに海外から思想や方法を直輸入すれば良いわけではない。教育とは、年長者が年少者へ過去から蓄積されてきた叡智を代々継承していくものであるはずだ。

 そして「熟議」という日本型のデモクラシーの叡智を継承していくことこそが、わが国の主権者教育のあるべき姿ではないだろうか。主権者教育について議論する各役所あるいは現場の教員には、そのことについて深く考えていただきたい。

(参考文献:施光恒『英語化は愚民化』集英社新書)

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