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「私はどうかしていた」 将軍ロンメル率いるドイツ軍がノルマンディー上陸を許した理由

2019年04月23日 公開
2022年07月11日 更新

大木毅(現代史家)

 

「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」

――第1次世界大戦、第2次世界大戦共に敗北したドイツにあっても、ロンメルは幾多の戦闘で勝利を収めました。砂漠が広がる北アフリカ戦線(1940年9月~1943年5月)は彼の生涯における華といえますが、どういった点が優れていたのでしょうか。

【大木】 ロンメルが「砂漠の戦争は海戦のようなものだ」と捉えていたことは、戦術面で優れた認識をもっていたことを象徴しています。

欧州本土における戦線では通常、交通の結節点や補給物資の集積場を狙って要衝を押さえ、重要都市を占領しようと試みます。しかしその戦術は、敵軍の機能を麻痺させられる地点が限られている砂漠では難しいため、相手の戦力そのものをどう潰すかが主眼になる。

そこでロンメルは、前方指揮と奇襲攻撃を遺憾なく駆使し、敵対勢力の装備品や補給物資を奪う「鹵獲」を進めていきます。

――第1次大戦以降、ロンメルが得意とした戦術ですね。

【大木】 ところが、戦術面では奏功したこの手法は、作戦・戦略次元では大きな損害を出しかねませんでした。

前方指揮はロンメル自身が戦死、もしくは捕虜となる危険を孕むと同時に、部隊との連絡が途絶えてしまうこともあった。ロンメルの戦法は、作戦遂行においてそのようなデメリットをもち合わせていました。

――英米を中心とする連合軍からの猛攻を受けてアフリカから退却したロンメルは、欧州西方の指揮を任されます。しかし1944年6月には、ドイツ占領下のフランス・ノルマンディーへの連合軍の上陸を許してしまう。なぜロンメル率いるドイツ軍は、ノルマンディー上陸作戦を防げなかったのでしょうか。

【大木】 ロンメル個人についていえば、ここでもやはり、作戦・戦略次元での問題が露呈します。

連合軍の侵攻が予想された1944年6月6日の天気予報が大荒れだと知ったロンメルは、この日の上陸は不可能だと判断し、担当戦域のフランスからドイツ本国へ戻って妻ルチー・マリアの誕生日を祝っていました。

しかし、のちにアメリカの大統領となるドワイト・アイゼンハワー連合国遠征軍最高司令官は、一時的に天候が好転するとの予報を受けて、リスクを承知で作戦を実行したのです。

現場を留守にしていたロンメルは連合軍上陸の一報を聞き、「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と呟いたといいます。

――戦術面で類稀な勘の鋭さをもっていたロンメルですが、指揮の次元が上がるほど適応力を欠いた。

【大木】 ただし、ロンメル個人で対処するには限界がありました。東部でソ連と、西部で英米と二正面戦争を行なってしまった時点で、大局的にみてドイツに勝ち目はなかったでしょう。

遡れば、1939年9月にドイツがポーランドに侵攻した際、ヒトラーはイギリスとフランスが宣戦布告をしてくるとは思っていませんでした。ヒトラーは欧州で大戦を起こすつもりはなく、ポーランドとだけ戦争をしたかった。

そのため日本との防共協定を強化し、もし英仏が参戦すれば、両国がアジアにもつ植民地に日本が攻め入るよう仕向けます。英仏がアジアに戦力を割かざるをえなくなれば、局地戦でポーランドを取れる、と踏んでいたのです。

しかし日本がなかなか防共協定強化に前向きにならないため、ヒトラーは不倶戴天の敵であったソ連と不可侵条約を結び、英仏を牽制する策に打って出た。

ところが、ポーランドへの侵攻を知った英仏は断固たる態度を示した。これはヒトラーにとって想定外だったのか、英仏の宣戦布告を受けた際、「さあ、どうなる」と口にしたといいます。

ドイツは作戦・戦術次元で優越していたのですが、大戦略を誤ってしまった段階で戦争の帰趨は決していたと思います。

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