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「大阪都構想」が反対派からこれほど“毛嫌い”される理由

2020年10月12日 公開
2022年01月13日 更新

竹内謙礼(有限会社いろは代表取締役)

 

大阪府と大阪市の対立構造の歴史

もうひとつ、都構想の合点がいったことは、「政令都市」という考え方そのものが、今の時代にあっていないという点だった。

東京にも、実は戦時中まで35区の「東京市」というものが存在しており、二重行政がたびたび問題になっていた。それを1943年に東条英機が強引に統合して、今の「東京都」が誕生した。つまり、都構想の問題は、すでに戦時中の東京で行われた改革案だったのである。

しかし、終戦後の1947年に地方自治法が成立し、人口50万人の大都市を府県から独立させる「特別市」の制度が制定されることになる。

戦後の政府としては、大きな都市にはもっと力をつけてもらい、府県が口を出せないような権限を与えて、都市開発を急加速させたい思惑があった。特別市の候補にあがったのが、大阪市、横浜市、名古屋市、京都市、神戸市の5大都市。

しかし、地域内の中核都市が管轄外になることに府県は猛反発。特に対立が激しかったのが大阪市と大阪府だったのだ。

その後、問題になった特別市は施行されないまま、1956年に代替「政令指定都市制度」が創設された。事実上、特別市が認められる形となり、大阪市と大阪府は対立構造を引きずったまま、今の行政の形になってしまったのである。

当時はまだ高度成長期ということもあり、大阪市と大阪府が別々にインフラ整備や産業振興を行い、お互いが切磋琢磨し合うことで、独自に成長を続けるメリットがあった。しかし、経済が停滞し、人口が減少していく中では、逆に無駄な部分が露呈してしまい、大阪の経済を停滞させている要因になってしまった。

 

知事と市長が連携しているのに…それでも「しんどい」二重行政

このような歪みが大阪だけ露骨に出てしまったのは、おそらく政令都市にするには大阪市の人口が多すぎてしまったからではないだろうか。

他の都道府県の政令都市のように街の規模が小さければ、きめ細かい行政サービスを提供することができたが、日本第二の都市である大阪の規模では、そのような細かいフットワークを効かせるには人口が大きすぎてしまったように思える。

事実、戦中に一つにまとめられた「東京都」は、23区の特別区に切り替えたことで、フットワークの軽さを生かして都市として急成長した。対して、大阪は鉄道同士の乗り入れが悪かったり、高速道路の繋がりが悪かったり、都市として未熟な面が目につく街となった。
「それが大阪やねん」

そう言って今までは冗談にすることができたが、それらの不便さの要因は、二重行政が抱える決定力の遅さと、大阪府と大阪市が生み出す軋轢に要因があるのではないかと思えてしまう。

なお、現在は松井市長と吉村知事が同じ政党ということもあり、連携しながら大阪の行政改革が行われている。しかし、選挙と市長と知事が別の政党になってしまうと、再び二重行政のしがらみに大阪は悩まされることになる。

本書の巻末の三者鼎談のインタビュー内で、吉村知事が、同じ政党で市と府が連携を取って行政改革を行ったとしても、「本当にしんどい」と嘆いているコメントには、市と府の連携の難しさが垣間見れる。

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