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毘沙門天の化身・上杉謙信、その実像に迫る3月号

2017年02月05日 公開

歴史街道編集部

 

謙信の実像に迫る

 

上杉謙信というと、どんなイメージをお持ちでしょうか。まず武田信玄との川中島合戦を想起する方が多いかもしれません。義に篤く、「敵に塩を送る」話もよく知られています。そして何より、軍神毘沙門天に深く帰依し、自らを毘沙門天になぞらえ、実際、戦いには極めて強かった。

一方、その戦いのほとんどは他者に助けを求められてのことで、他の戦国武将のように領土拡大を目指して侵略するものではありませんでした。稀に見る高潔な人物であることは事実ですが、しかし領土拡張をしないとなると、謙信はともに戦いに臨む家臣らの功績にどうやって報いたのか。

頻繁に戦うのに、領土が増えない。働きに見合う恩賞が与えられなければ、家臣らが命を張って謙信について行くはずがありません。果たしてその点をどうしていたのか、意外にあまりわかっていないのではないでしょうか。

そしてもう一点。領土拡張、天下を目指すことをしない謙信は、人助けをしつつ、最終的に何を目指していたのか。そこがわからないと、「結局、謙信はスポーツを楽しむように、戦うことが趣味であった」などという、とんでもない結論になってしまいます。実際、そうとらえて描いた小説を読んだことがあります。

これらの疑問に明確な回答を示したのが、乃至政彦先生でした。乃至先生は、とかく観念的な人物と思われている謙信が、実は極めて現実的・合理的判断に基づいて行動していたことを指摘します。確かにそれに気づくと、謙信の行動が一貫していることがわかるのです。その目指したものをひと言で表現するならば、「秩序の回復」であったでしょう。

世の中が乱れ、力をつけた輩は将軍や関東管領という武士を統べる権威に耳を貸さず、自らの欲得のために動きます。それによって最も苦しんでいるのは、民でした。謙信は有名な永禄11年(1568)の「敵に塩を送る」際、こう言ったといいます。「海に面していない甲斐に塩止めすれば、困るのは民である。わたしは武田軍と矛を交えて久しいが、米や塩で民を苦しめようと思ったことはない」。

朝廷や幕府という旧来の権威は当時衰えていましたが、謙信はそれを重んじ、その権威に後押しされることで大義名分を獲得すると(具体的には関東管領就任)、自らの武力をもって関東平定に乗り出しました。

謙信は生涯で2度、上洛していますが、その際に親交を結んだ将軍足利義輝、関白近衛前嗣(前久)との出会いと共鳴が、実は謙信の進む道を決した可能性があるのです。

なお、謙信は室町幕府の再興を強く願い、その秩序を乱世の終息に活かそうとしました。その点から、たとえば織田信長と比べて考え方が古いといわれることもありますが、果たして一概にそういえるでしょうか。

謙信が二度目の上洛を果たしたのは永禄2年(1559)。一方、信長が足利義昭を擁して上洛したのは永禄11年です。この時、信長は幕府を再興させようとしているわけで、信長が義昭を追放したのが天正元年(1573)であることを思うと、謙信の上洛時から14年のタイムラグがあるのを無視できないでしょう。

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