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日本人だけ?非礼?「両手握手はみっともない」

2016年02月01日 公開
2016年11月11日 更新

勢古 浩爾(エッセイスト)

両手で相手を包み込む両手握手は、宗主国の人間に植民地の人間が謁見するようで、見ていてはずかしい

「日本ローカル」のしぐさ

 

 わたしは異常なまでのテレビ好きで、家にいるときは延々観ている。ニュース、ドキュメンタリー、スポーツ、バラエティ、お笑い、クイズ、教養と、ジャンルは問わない雑食である。当然、面白いものもあれば、愚かなものもある。観ていると、ときどきちょっとした場面に違和感をもつことがある。その一つに「両手握手」がある。若い芸能人や芸人やスポーツ選手が握手をする場面が映し出されることがよくあり、そのときにかれらは、両手で相手の手を「包み込む」ようにするのである。これが気持ちが悪い。同時に頭を下げたりする。何をやっているのだ、と思う。双方が包み込む場合があり、上位者(年長者、先輩、外国人)に対して下っ端だけが、笑顔とともに包み込む場合もある。

 気持ちはわからないわけではない。忖度するに、両手による「包み込み」で相手に「敬意」を表しているつもりなのであろう。「あなたにお会いできてわたしはこんなに感激しております」というように。北朝鮮では相手に敬意を示す場合には、握手した自分の右手の手首を自分の左手で掴むのが作法とされているようである。拉致から解放されたジェンキンスさんがまさにそれをやっていた。これが現在の日本では、両手による「包み込み」になっているらしいのだ。両手握手だけでもまだ「敬意」の示し方が足りないと感じられる場合は、その最上級であるお辞儀が加わるのである。

 しかし握手に「敬意」を込めるもへちまもありゃしない。親近感を表し、邪心のないことを示すただの挨拶である。先輩後輩も、大人も子どももない。もし子役の本田望結が安倍首相に会っても、片手だけの握手でいいのである。というより、それが正しい。日本のお辞儀がそうではないか。双方のお辞儀だけでいいのである。下っ端だけが上位者に何回も最敬礼しなければならないなんてことはない。松井秀喜がヤンキースに入団し、当時のオーナーのスタインブレナーに挨拶をしたとき、握手をしながら頭を下げる松井に、スタインブレナーが「頭は下げるな」といったことは有名(?)である。

 欧米人の大物俳優や映画監督やスポーツ選手に会うときは、それ以上にひどい。インタビュワーは、まるで宗主国の人間に植民地の人間が謁見するような、感謝感激雨あられ的な両手握手をするのだ。世界の「大物」(だいたい日本人は「大物」だの「大御所」だのといいすぎる)を前にして舞い上がってしまうのは仕方がないかもしれないが、見ていて恥ずかしくてしょうがない。もし敬意を示したければ、言葉で「お会いできてうれしいです(光栄です)」といえばいいだけの話だ。北野武でさえ、海外の映画祭で受賞したりすると、「テヘヘ、申し訳ない」といった風情でみっともなく首をすくめ、頭をかくしぐさをしたりするのだ。むろん照れ隠しだとわれわれにはわかるが、こんな「日本ローカル」のしぐさが世界に通用するはずがない。

 いうまでもなく、握手は日本の文化ではない。考えてみればわたしたちは、握手は“上位者から手を差し出すこと。片手だけですること。頭は下げるな。男は女の人に握手を求めてはいけない”という握手の基本作法を誰からも教わったことがない。ばかの一つ覚えのように真似ている「ハグ」や「ハイタッチ(グータッチ)」(どちらも和製英語)や「サムアップ(サムダウン)」などの握手以外の欧米のしぐさも、「なんだかかっこよさそうじゃない?」と、ただ見よう見まねで覚えただけである。幼稚園の先生たちは園児に家を訪問させて「トリック・オア・トリート」などといわせている始末である。

 人との別れ際には何か余計な一言をいい、ロボットには「花子」などの名前を付け、落語にはオチを付け、携帯メールには絵文字、「LINE」にはスタンプを用い、酒を飲めば「シメ」の一品を欲するように、人間関係に情緒を持ち込まないと物足りないわたしたち日本人は、片手の握手だけでは「素っ気ない」と思い、逆に失礼にあたるのではないか、と思ってしまったのだろう。「素っ気なさ」は緩和されるべきであり、そこで握手にまで情緒が持ち込まれた。まさに「誠意は形で示せ」を実践したのだが、結果、見た目には卑屈で、実際にはかえって非礼な日本ローカルの握手になったのである。

 

「尊大」と思われないようにする神経戦

 

 両手握手が見られるのは、先輩後輩意識が強い芸能界やスポーツ界だけのことかと思うと、一般の人のあいだにまで普及しているようである。芸能人がわが街に来ると、出会えたことがうれしくてたまらないというように、両手握手をする一般の人が目につくのだ。これがまだ国内だけのことならいい。外国人と頻繁に接触する商社員や政治家にこんなことはないだろうと思う。ところが2009年に小沢一郎率いる大訪中団が胡錦濤に会ったとき、片手を差し出す胡錦濤に、民主党の多くの政治家たちは媚びへつらうような両手握手をしたのである。だめだこりゃ。もうどうにもならない。両手握手は日本の上から下までほぼ定着したといわなければならない。

 この両手握手には、相手への「敬意」の表明や「素っ気なさ」の緩和のほかに、もう一つ、自分が相手に尊大(偉そう)だと思われないように「へりくだる」という意識があるように思われる。「敬意」の表明や「素っ気なさ」の緩和以上に、この意識は強いのではないか。だから目下の者が両手握手をしてくると、目上の者までが慌てて包み返したりするのである。その目下の者や、あるいはその場面を見ている第3者から、偉そうなやつだ、と思われたくないからである。たかが握手一つするにも、両者の思惑が瞬時に交錯するのだ。まことに厄介なことである。

「わたしなんか人と握手する機会などありゃしない、外人さんとも会うことはないから、握手のことなんかどうでもいいじゃないの」という人がいるだろう。そういう人のほうが大半かもしれない。しかしそんな人も、他人から「尊大・傲慢」な人間と思われることだけは絶対に避けたいと思っているのなら、このことは無関係ではない。事は握手だけの問題ではないのである。上司と部下、友人同士、ママ友、サークルなど、あらゆる人間関係で、相手に「尊大」と思われないように自重する神経戦が行なわれているのである。

 

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