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指導者の器とは

川淵三郎(日本サッカー協会名誉会長)

2010年12月07日 公開 2022年08月17日 更新

日本代表チームの成長を加速させた外国人指導者たち

 南ア大会が終わって、いくつかの総括をしながら、現地で取材した記者にも話を聞きました。

 PK戦の末、日本が敗れたパラグアイ戦後、パラグアイの記者に、「私たちはW杯のベスト8入りに1930年の初出場から80年間、待ち続けた。だから、まだ12年しか経っていない日本から譲ってもらってもいいだろう」と言われたそうです。さらに、日本が、南アでベスト16進出を果たす要因となった組織力や守備面への評価とともに、初出場からわずか12年で、「どうしてこんなにも早く進歩を遂げているんだ」と、各国のメディアから驚かれたそうです。

 たしかに、まだ4大会目の出場であり、そのうち1回はホーム開催の有利がありました。世界的にはまだ「新参者」の部類に入る日本が、なぜこれほどの存在感を示すことができたのか。ほかに例を見ない早さで、W杯で勝ち進む日本への関心が高まるのは理解できます。

 1954年のスイス大会から出場してきた韓国が、アウェーのW杯で初めて1勝したのは、実は2006年のドイツ大会で、アウェーのW杯での16強進出は日本と同じく今回が初めてでした。また、オランダは優勝へ3度目の挑戦でしたが、またもチャンピオンの座を逃し、スペインはW杯で8カ国目の優勝国に輝きましたが、初出場から実に76年目にたどり着いた頂点です。

 W杯で勝利をあげるために、実に気の遠くなるような年月の積み重ねがあるのです。そういう長い忍耐の歴史と、W杯の進歩の速度が比例するとすれば、日本は、他国より数段早くここまで進歩したともいえるでしょう。

 その大きな要因が、歴代の日本代表監督にあったと思います。98年のW杯を目指した加茂監督、岡田監督の日本人監督の後、トルシエ監督、ジーコ監督、オシム監督と、外国人のすばらしいリーダーたちに恵まれました。彼らは、勤勉さ、向上心、契約に対する誠実さなど、日本人の特性を理解し、さらに日本との融合を試みながら、最終的には日本を愛して仕事をしてくれました。短期間での急成長の背景には、そのように日本人の特性を活かし、引き出そうとするリーダーたちの資質がチーム作りにマッチングしたことがありました。

川淵三郎(かわぶち・さぶろう)
1936年、大阪府高石市出身。三国丘高から二浪で早稲田大に進学。2年生の時、サッカー日本代表に選出される。
1961年古河電工入社。1964年東京五輪アルゼンチン戦では同点ゴールを決める。国際Aマッチ24試合6得点をあげるなど「槍の川淵」と呼ばれた。
1970年に現役引退後、古河電工の監督、日本代表監督を務めながら名古屋支店金属営業部長に。
1988年から日本サッカーリーグ総務主事としてプロ化に奔走。
1991年Jリーグ初代チェアマン就任を機に30年の会社勤めに終止符を打つ。
2002年日本サッカー協会キャプテン(会長)となり、現在は名誉会長。2009年早大特命教授に就任。
著書に『「J」の履歴書』(日本経済新聞出版社)『「51歳の左遷」からすべては始まった』(PHP新書)など。

著者の本

『「51歳の左遷」からすべては始まった』
川淵三郎 著

   

采配力(さいはいりょく)

 南アW杯で日本代表を16強に導いた岡田監督。その采配の背後にはどのような思いが秘められていたのか? さらに、トルシエ、ジーコ、オシムといった歴代の代表監督に見る「采配力」とは?

 日本サッカー界を牽引し続けてきた著者が、初めて明かす「勝てる指導者」の条件。「ステップ・バイ・ステップではなく一点突破」「実績や前例より熱意で人を動かす」「大胆な夢を持つ」「異分野、異業種に学ぶ」など、自ら現場に立ち、Jリーグ実現に奔走した体験も語り尽くす。組織に生きるすべての人々に贈る「真のリーダー論」。

 さらに、岡田武史氏(サッカー日本代表・前監督)、清宮克幸氏(サントリーラグビー部<サンゴリアス>・前監督)、木村正明(J2ファジアーノ岡山・社長)、西野朗(ガンバ大阪監督)、貴乃花親方(日本相撲協会理事)といった、時代を担う注目のリーダーたちとの対談も収録。

関連セミナー

新書学び塾【「采配力」~勝てる指導者の条件~】

PHP新書『采配力~結果を出せるリーダーの条件~』発刊を記念して、川淵三郎氏の講演会を開催します。歴代の日本代表監督を見てきた経験から「勝てる指導者」の条件についてお話しいただきます。

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