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社会

「アメリカなのに英語禁止」のコミュニティで育った少女のその後

デボラ・フェルドマン(訳:中谷友紀子)

2021年04月06日 公開 2022年10月06日 更新


(写真:Alexa Vachon)

アメリカに生まれ育ちながら、英語を話すことも読むことも禁じられていた少女は、誰にも知られないように英米文学を読むことで救われた。

現代のニューヨークに英語での会話、読み書きが禁じられているコミュニティが存在する。イディッシュ語を公用語としている、ウルトラオーソドックスと呼ばれるユダヤ教超正統派のコミュニティである。

そこでは、ユダヤの先祖の言葉とされるイディッシュ語のみ許され、英語は魂を侵していく毒だと教えられている。まるで英語の使用を禁じられた、戦中の日本のような社会である。

このコミュニティでは、17歳でお見合いさせられ30分しか会っていない相手と結婚させられる。そして結婚後は、女性は髪を剃らねばならず、かつらやスカーフで頭を覆って一生を過ごさなければならない。

ここで生まれ育った少女デボラは、英語で書かれた『自負と偏見』や『若草物語』をこっそり読んでは、外の世界への憧れを膨らませていた。デボラは本を読むことで自我に目覚め、長じて後に大学で学ぶ機会を得て、コミュニティからの自由と自立への一歩を踏みだすことができた。

多様性の時代に生きるわたしたち日本人にも、母国語以外の言語を獲得することの重要性をこのエピソードは教えてくれるのではないだろうか。

本稿では、いまいる世界がすべてではないと閉鎖的なコミュニティから脱出した、「言葉」を得ることにより勇気ある行動を起こすことができたデボラの一節を紹介する。

※デボラ・フェルドマン『アンオーソドックス』(&books/辰巳出版)の一部を再編集したものです。

 

いつか、ブルックリンを出る

図書館にはまだ学校の推薦図書が展示されていて、ワゴンにはぴかぴかの背表紙の新刊ペーパーバックがぎっしり詰めこまれていた。わたしはハリー・ポッターの最新刊と、フィリップ・プルマンの人気三部作の一作目、それに図書館の推薦図書の『ブルックリン横町』を借りた。

『選ばれしもの』を読んだときの、冬の寒い日に飲むバビー(デボラの祖母)のチキンスープのような温かい心地よさが忘れられずにいた。わたしも『ブルックリン横町』の主人公と同じブルックリン育ちの女の子だ。同じこの埃っぽい街の住民同士、共通点は多いはず。

主人公のフランシーが困窮から抜けだす物語にわたしは夢中になった。最初の極貧状態を少しずつ着実に脱していくさまを追いながら、心の底では望みどおりのハッピーエンドが来ないのではと不安も覚えていた。

フランシーの行く末が気になり、失敗や落胆を自分のことのように感じた。フランシーが抜けだせるなら自分にも抜けだせる、そんな気がしていた。わたしを一生縛りつけようとする灰色の世界から。

ラストでフランシーは大学に通うことになるが、それを勝利と喜んでいいのかわからなかった。大学に行けばすべての夢がかなうのだろうか。自分が大学に行けないことはわかっていた。教科書からはその言葉が削除され、教育など受けても無駄だと教えられていた。

だからこそ、教育、そして大学がウィリアムズバーグを離れるための第一歩なのだ。ゼイディ(デボラの祖父)に言わせれば、教育は混乱への第一歩だという。そこへ踏みだせば過ちの無限ループに捕らえられ、神から遠ざかったユダヤ人は魂の昏睡状態に陥るのだそうだ。

そう、教育がわたしの魂を殺すことは知っていた。でも、フランシーは?大学を出たあとどうしたのだろう。戻ってきたのだろうか。そもそも、生まれた場所を捨てることは本当に可能なんだろうか。よそへ行って失敗するより、いまいる場所に留まるほうが賢明だとしたら?

月曜日、高等部の新学期がはじまった。卒業まで三年。そこで子供時代が終わる。いつかブルックリンを出る、わたしはそう決意した。こんなにちっぽけな狭苦しい場所で人生を無駄遣いするなんて耐えられない。

外には広い世界が待っている。どんな方法になるにせよ、フランシーと同じように一歩ずつ確実に出口へ近づいていけばいい。何年もかかるかもしれない。でも、いつかきっと。わたしは強く心に誓った。

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