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戦国以来450年の伝統にピンチ!「真田紐」復活にかける親子の思い

真田幸光(愛知淑徳大学教授),墨屋那津子(真田紐スペシャルアンバサダー),墨屋百香(Atelier sumiクリエイティブディレクター)

2021年10月12日 公開 2024年12月16日 更新

「真田紐」という450年の歴史を持つ紐がある。戦国武将・真田幸村(信繁)とその父・昌幸が特に品質の良い真田紐を織ったことからその名が名付けられたとされ、かの茶人・千利休が箱紐に使っていたという。

国際金融論の専門家であり、愛知淑徳大学の教授や、官民問わず多くの顧問やアドバイザー業務、メディア出演などで活躍する真田幸光氏。戦国武将・真田家の末裔(真田信之から数えて14代目)でもある。次男だった祖父の代より分家となり、現在では本家ではないが、現在も真田家とはゆかりが深い。

そんな真田幸光氏と、真田紐スペシャルアンバサダー・墨屋那津子氏、最高品質真田紐ブランド「Atelier sumi」クリエイティブディレクター・墨屋百香氏の三人の縁がつながり実現した対談。本記事では、その一部を紹介する。

※本記事は真田幸光オンラインサロン「経済新聞が伝えない世界情勢の深相~真田が現代の戦国絵図を読む~」内で公開された動画コンテンツより一部を抜粋・編集したものです。

 

真田紐の危機に立ち向かう二人

【真田】今日はオンラインサロンに特別ゲストをお迎えしました。真田紐織元の創業者のお孫さんの墨屋那津子さんとひ孫の墨屋百香さんです。

お二人との縁は、大学野球部の後輩の奥様から「今、真田紐がピンチです!!」という連絡をいただいたことがきっかけです。私も真田紐については存じ上げていましたが、最初は「ピンチとはどういうことだろう?」と思いました。

今、日本で真田紐の継承活動に取り組まれている墨屋さん親子です。お二人に、真田紐の現状についてお伺いしたいと思っています。

【墨屋那津子】初めまして。墨屋那津子と申します。簡単に経歴を申し上げさせていただきます。私はNHKでアナウンサーをしておりました。その後、事業家に転向し、レストランや健康事業に携わる他、再び声の活動を再開しNHKのアナウンサーのお仕事などを行っています。

そうした経歴の中で、なぜ、真田紐の継承活動をしているかと申しますと、私の祖父の代に遡ります。祖父・墨屋杉太郎が真田紐を織ることを決めて会社を興しました。

その後、私の父が会社を引継いでいた時期があり、私は小さい頃から真田紐を織る音を聞き、多くの作家の方が家に出入りするのを見て育ちました。今は、従兄弟が社長として会社を継いでいるのですが、ある時、従兄弟から連絡がありました。「もう、真田紐をやっていけない・・・」というのです。

「100年続けようと思ったが、50年前くらい経った頃から需要伸びない」
「働いている職人さんの賃金もなかなか上げることができない」などなど。

そして極め付きは、そこに新型コロナウイルスの問題です。結局、金沢の店舗を閉めざるをえませんでした。こうした状況にあって、居ても立っても居られなくなりました。真田紐は450年続いてきたという歴史があります。我々が織るのを止めてしまったら、そうした歴史が途絶えてしまう。

「何とかしたい!」――そこで、真田紐スペシャルアンバサダーとして、多くの方に真田紐について知っていただけるように、「真田紐というのはこういう紐です」「真田紐にはこういう特徴があります」とお伝えし、真田紐存続のために、現状と魅力を伝える活動をしています。

【真田】墨屋さんのご出身は石川県金沢でしたね。真田の先祖は紀州九度山にいて、真田紐を作ったといいます。生活が非常に苦しい、それどころか何もない中で、「どうしたら生きていけるのか?」と考え抜いて、真田紐を考案したのだと思います。

このことは歴史書にも書かれていて、私の家でもそのように教わっています。しかし、九度山があるのは和歌山県です。和歌山県と石川県が100年前にどうして繋がったのでしょうか。

【墨屋那津子】あくまで、伝え聞いていることという前提でお話しますね。

【真田】ええ、実際にやっていらっしゃる方のお話が大事だと思います。真田の家も、文書で書いてあるものは多くありません。口伝がほとんどです。

真田家は外様だったので、文書に残してしまうと、それがお取り潰しの口実に利用されてしまうかもしれないという危機感を常に持っていました。だから口伝が多いのです。口伝が必ずしも正しいとはいえないかもしれませんが、真実の一つだと思います。

【墨屋那津子】真田紐のことが、気になって、電話で話を聞いたことがあります。「昔は色々なところで真田紐が織られていた」「繊維産業として全国的に真田紐の会社があった。」「けれど、戦争があったり、不況があって真田紐一本で商売をしていた企業が、戦後に軒並み無くなってしまった」と、母は申していました。

【墨屋百香】各地で織られていたということは色々と調べてみて、わかりました。石川県だけでなく、もちろん和歌山県などでも織られていたようです。

【墨屋那津子】なぜ私たちが生き残ったのか。何かしら祖父と祖母の真田紐に対する思い入れがあったのだと思います。また、他の事業もしていたので、そちらで補填できた部分もあったようです。その結果、企業体として大規模に残ったのが、「織元すみや」だけとのことでした。

大切なお金を、きっと他に使いたいこともあっただろうに、わざわざ真田紐に使い、これだけのものを残したというのは、何かしら強い思いがあったのではないか、ということを感じました。

【真田】そういうふうに思っていただいて残していただけたのはとても嬉しいです。真田紐は、様々な場面で、実用品として使われていました。だから需要があり、その結果、生産者もたくさんいらっしゃって、それで商売が成り立ち、生活ができたのですね。

しかし、今は多くの需要を見込むのは難しいはず。そうすると考えていくロジックとしては、少量変量でも良いから、多品種で高品質なものを生産する。そして、それをきちんと理解してくれる人たちに使っていただいて、魅力を感じていただく。

そうした発想に切り替えていく必要があるのかもしれません。そういう形で、伝統や歴史を守っていただくのも方法かと思います。本当は大量生産して多くの人に「どんどん使ってくれ」と言いたい気持ちもあります。

しかし、様々な素材や商品があって多様化された現在の日本と世界を見渡してみると、今、真田紐を日々の生活の中で使っていく場面を思い描くことがなかなか難しいのも事実です。

現在、中国で機械織りのものが作られているのは、実用面で使える場面が多くあるからだと思います。中国では、実用的に使う現場がまだまだあるので安くて、大量に必要とされるのですね。日本では、やはりその現場が減ってしまっていると思います。

ですから、少量変量でもいいから、その付加価値を、多品種高品質の価値を、わかっていただける方たちをターゲットにして、しっかりと使っていただく。そして対価を得て、職人さんたちもそれによって生活の糧を得ていただいて、真田紐を残していただく。それが真田昌幸が考案した真田紐がしっかりと残っていく形なのではないかと、真田の末裔として思います。

【墨屋那津子】どうしたら真田紐を未来に繋げられるのか。どうしたら織ってくださっている方を経済面で支えていけるのか。隣にいる娘たちが、これから50年、100年と織り紐を続けていくためにはどうしたらいいのか。そんな思いで活動しております。

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