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松下幸之助は「デフレ」にどう対処したのか

PHP研究所経営理念研究本部

2012年11月27日 公開 2022年12月20日 更新

戦前から高度経済成長期まで、幾多の経済危機・金融危機を体験した松下幸之助は、経営者として大きく2度、「デフレ」と向き合っていました――。

 

松下幸之助と「デフレ」

「デフレ」にどう対処すべきか。バブル崩壊後、約20年にわたる経済停滞の中で、多くの経済学者・政治家・識者がこの議論を続けてきました。そうした中、2012年2月、年率1%のインフレ率をメドにすると発表した日銀は、先の10月30日、デフレ脱却、緩やかなインフレを目指すという方向性を政府と連携して進めるとし、さらなる金融緩和強化に動いています。金融政策面では、アメリカやインフレターゲット政策を採用する先進国に近づいたようにもみえますが、その質・量、そして効果を疑問視する声も国内外から聞こえてきます。

いまの日本のデフレとは性質が異なる面がありますが、松下は大きく2度、「デフレ」と対峙しました。1度目は、1929年の昭和恐慌以後のこと。2度目は、太平洋戦争敗戦後、1949年以後のいわゆるドッジデフレです。いずれも、インフレ抑制のためのデフレ政策によって生じたものでした。

1度目の1929年頃、松下電器(現パナソニック)は規模的にまだ中小企業でした。企業の成長を支える“人”を絶対に失いたくないとの思いで松下がとった経営判断、そしてその決断に動かされ、懸命の努力を重ねた従業員の姿は、いまも松下電器の栄光の歴史として語り継がれており、まさに自力でデフレ不況を克服した局面でした。冷え込む国内需要に対し、過剰となった供給を一時的に止め、在庫一掃に人員コストを傾注する。その間、賃金は減らさず、従業員のモチベーションを下げない。中小企業がとれる緊急デフレ対策として、いまの時代でも参考になる面はあるでしょう。松下の没後、最初に刊行された『人生談義』(1990年)には、当時の松下の心境がこう記されています。

冬から春への移り変わりを眺めていると、時といういわば目に見えない大自然の力というものを感じさせられます。春になればらんまんと咲く桜花といえども、冬の間は花を咲かすことはできない。いかに望もうと、冬が過ぎ春が到来するまで待たなければ、花ひらくことができないのです。もっとも、桜はただ単に待っているのではないと思います。冬の厳しい寒さをじっと耐え忍びつつ、一瞬の休みもなく、ひたすらに力をたくわえている。そうした営みがあればこそ、春の到来と共に、一気に美しい花を咲かせることができるのだと思うのです。それが自然界の姿であり、自然の理というものでしょうが、お互いの仕事や人生においても、冬の桜のように耐えて時を待たなければならないことが、往々にしてあるのではないでしょうか。

ぼくも事業を進める中で、いく度となくそうしたことを経験してきました。かなり以前の話になりますが、昭和4年の不況のときもそうでした。当時の日本は、浜口内閣のデフレ政策や金解禁により、大不況に突入。物価は一斉に下落するのみならず、物の売れゆきは急速に落ち込んでゆきました。企業の倒産もあちらこちらで起き、それと共に、従業員の賃金の減額や、解雇などの問題が各地で起こり、厳しい労働争議が続出していました。そうした中で、松下電器も、売り上げが急に落ちて、通常の半分以下という状況になりました。またたくまに在庫の山ができ、その年の暮れには、倉庫がいっぱいになって、どう工夫して積み込んでも入り切らないという状態になってしまったのです。資金に十分な余裕があれば、まだよかったのですが、当時は新しい工場を建設したばかりで資金が枯渇しており、そのままの状態で仕事をつづけていけば、やがて経営が行きづまってしまうのは火を見るより明らかでした。そういう非常事態の中で、折(おり)悪(あ)しく病床に身を横たえていたぼくのところへ、幹部の人たちが、いろいろ考えた末の善後策を持って訪ねてくれました。

「販売が半分に減り、倉庫は在庫の山です。この危機を乗り切るためには、従業員を半減するしか道はありません」

それを聞いてぼくは、一面もっともなことだ、そうするのが、こういう際の常道であろう、とは思いました。しかし、それがほんとうに正しい道であるかどうか、あらためて考えてみたのです。松下電器は現在確かに苦しい。従業員を半減することによって、この苦しみから逃れられるかもしれない。そうするのも1つの策であろう。けれども、松下電器は将来、さらに力強く発展していかなければならないことを考えると、せっかく採用した従業員を、いま不況だからといって解雇することはどうしてもすべきでない。ここは何とか、耐え忍んで、不況を乗り切らなければならない、というのが自分なりの結論でした。そこで、いろいろ思いをめぐらした結果、こう決断したのです。これ以上在庫を増やさないために、生産を直ちに半減して、工場は半日勤務にする。しかし、給料は全額支給しよう。そのことによる損失はあるが、しかし、これは長い目でみれば一時的なものであって、たいした問題ではない。さらに、倉庫にたまっている在庫の山についても、売れないとあきらめてはいけない。売るための努力は、すでにこれまでにも十分しているであろうが、なお徹底してやろう。全員で昼も夜もなく、また休日を返上し、全力をあげて在庫品を売る努力を重ね、耐えつつ時を待とう。

ぼくのこの決断を聞いた幹部の人たちは非常に喜んで、「あなたがそう決心をされたのなら、必ず遂行してみせます。だから、安心して養生していてください」と帰っていきました。従業員の人たちも、それを聞いて大いに喜び、全力を尽くして販売に努めることを誓ってくれたのです。その成果は、恐るべきものでした。全員が大いに張り切って取り組んだ結果、翌年の2月には、在庫品の山はウソのように消えてしまいました。しかも、それからは、半日生産をフル生産にしても、なお追いつかないほどの活況を呈するようになったのです。これは、ぼくの体験の中の1つの事例にすぎませんが、お互いの人生においては、このように耐えて時を待つことによって好ましい結果に結びつくことが、少なくないのではないかと思うのです。

 

 そして2度目の1949年頃は、すでに大企業へと成長し、政治や社会情勢が経営に及ぼす影響の度合いもより高まっていました。当時の経営状態の悪化は深刻なものであり、希望退職者を出すなど苦渋の選択も迫られました。1949年1月の経営方針発表会で、松下は以下のように、社員に要望したといいます。

過去3年間、会社は利益をあげていない。借入金を増やし倉庫の在庫品を減らして、実質的には欠損をしてきた。そういう過去の経営であってはならない。本月からは、少なくとも利益をあげていくことである。どうしても利益を生んでいかなければならないのである。皆さんが、朝から晩まで会社の仕事に従事してくださって、そうしてその働いた成果というものがゼロではいかんということである。その働いた成果には、必ず利が出なければならない。これをなしえないような経営では絶対に意義がない。いやしくも数億の金を使い、数千台の機械、数百棟の建物を使用し、7千の人が朝から晩まで一所懸命に働いて、何ら利潤も出ないということは、国家をしてだんだん貧困ならしめ、会社をしていよいよ衰微せしめ、全従業員がだんだんと貧困になることでしかない。かくのごとき能のない働きに終始してはならないのである。われわれが産業人であることを考えるならば、これだけの人の働きの成果を黒字にもっていって、国家の繁栄と、会社の繁栄と、従業員の生活向上になるような成果ある仕事を断じてやる、ということを、はっきりとわれわれは認識しなくてはならない。そうでなければ、あってかいない存在であると私は考える。あってかいない存在ならば、松下電器は解散をしてよろしいものであると思うのである。
(『松下幸之助発言集22』より)

 まさに不退転の覚悟という表現がふさわしい内容ですが、その後の松下電器は、生産規模の縮小と合理化、販売網の再編成などの大改革を断行します。

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