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政治における「評判」を知らない吉良上野介

瀧澤中(作家/政治史研究家)

2017年10月02日 公開 2024年05月28日 更新

吉良上野介義央
江戸時代前期の高家旗本(高家肝煎)。赤穂事件を題材にした『忠臣蔵』では敵役として描かれるが、地元である吉良町(愛知県西尾市)では、今なお「名君」として慕われている。写真は吉良邸跡(東京都墨田区)にある吉良上野介義央の像。

※本記事は、瀧澤中著『「江戸大名」失敗の研究』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。
 

吉良上野介の失敗

吉良上野介は、政治における「評判」の意味を理解していなかった。政治宣伝の失敗は、吉良の大きな失点である。

大名家を訪ねて行った時に、そこに掛けてあった掛軸を欲しがるなど、「諸大名の屋敷を訪れた時は、ねだりがましい行動をとっていた」(山本博文『赤穂事件と四十七士』)ようである。

これでは、当時も後世にも悪評が残る。

たとえばのちに老中として「天保の改革」を主導する水野忠邦は、「評判」の意味を知っていた。こんな逸話が残っている。

忠邦は何か用事をこしらえては大奥へ行き、財布をわざと落としてくる。

気がついた女中が忠邦に財布を届けると、

「これはかたじけない。しかし、すでに落としたものなれば、みなさまでお分けくだされ。はっはっは」

と、大人ぶる。

財政難の折から大奥も楽な暮らしはしていない。ありがたく受け取る。

あきれたことに忠邦は、大奥に行くたびに忘れ物をして、しかも忘れ物の中には必ず金が入れてある。

そのうち、大奥では忠邦がやってくるのを愉しみにして、ついには「時々は、上さまに御用伺いに参られませ」と言わしめた(『史談会速記録』)。

水野忠邦は出世のために大奥工作をしていたわけで、動機は不純だが「評判」の力を知る政治家であった。

大奥に出向くたびにわざと財布を落とす水野と、大名家に行っては物欲しげに物品を褒める吉良では、当然評判は違う。

そもそも「忠臣蔵」というのは「仮名手本忠臣蔵」という、江戸時代の人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居からきている名称で、しかも「仮名手本忠臣蔵」は、室町時代を舞台とした完全な創作物である。

よって、虚構が独り歩きしている。

刃傷事件の後、一般庶民も含めた世間ではさまざまな反応があった。もちろん、幕府ですら刃傷の真相をつかんではいなかったわけで、まして情報の乏しい一般人にとって、なぜ喧嘩両成敗にならなかったのか」、という法的な根拠はよくわからない。また、赤穂や吉良以外の住民にとっては、事件の登場人物をあまりよく知らないわけで、そうなると噂話が元になって、勝手に人物像がつくり上げられる。

ただでさえそうなのだから、地位にある者は普段の言動に気を配らねばなるまい。

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