緊張の中幕を開けた2020年東京オリンピック。様々な競技で繰り広げられる闘いの一角で、出場国や出場選手への差別的な発言や行動が連日報道される。
「この人は●●人だから」何気なく放った言葉が、レイシズム的な考え方を浮き彫りにする。"国"というフィルターがかかっただけで、ひとくくりの人種としてレイシズム思想を生みだし、民族間で格づけをしてしまう。
歴史学者、イブラム・X・ケンディは、「人はある瞬間にレイシストになれば、次の瞬間にアンチレイシストにもなる」という。民族間に無意識に生まれるレイシズム的思想はどのようにしてつくられるのか。ケンディ氏が対話したある学生のエピソードを紹介する。
※本稿は、イブラム・X・ケンディ (著),児島修(訳)『アンチレイシストであるためには』(&books/辰巳出版)より、内容を一部抜粋・編集したものです。
"人種化"される民族集団
事実、あらゆる民族集団は、ひとたび人種という概念をつくりだそうとする権力者たちの視線とパワーにさらされると、たちまち人種化されてしまう。
たとえば、ぼくはアメリカに連れてこられた奴隷の子孫である。ぼくの民族集団はアフリカ系アメリカ人で、アフリカ系アメリカ人としての人種は黒人になる。同じく、ケニア人は黒人の民族集団として人種化され、イタリア人は白人、日本人はアジア人、シリア人は中東系、プエルトリコ人はラティニクス、チョクトー族はアメリカ先住民に人種化される。
民族レイシズムはレイシズムと同じく、"集団間の格差の原因はポリシーでなく行動にある"と考える。白人アメリカ人に同調して「アフリカ系アメリカ人は怠惰だ」というガーナ系移民は、アフリカ系アメリカ人についての白人アメリカ人のレイシズムの考え方を再利用していることになる。これが「民族レイシズム」だ。
アフリカ系アメリカ人への批判をまくし立てた学生
ニューヨーク州北部の大学で教員として働きはじめた頃、大胆なガーナ人の学生がいた。彼はぼくの授業中、アフリカ系アメリカ人でいっぱいの教室で、怠惰であるとか生活保護に依存しているとか、アフリカ系アメリカ人に対するよくある批判を延々とまくしたてた。
ぼくはその主張を否定するデータを示した。たとえば、生活保護を受けているアメリカ人の大多数はアフリカ系アメリカ人ではなく、生活保護を受ける資格のあるアフリカ系アメリカ人の大多数はそれを利用していない、といったことだ。
だがガーナ人学生は自説を主張し続けた。最初は笑いながら話を聞いていた教室内のアフリカ系アメリカ人の学生たちが、しだいに怒りはじめているのがわかった(移民系の黒人の学生たちは静かにしていた)。
ぼくはクラスを落ちつかせるために、アフリカ系アメリカ人が抱きがちな、西アフリカ出身者に対する民族レイシズムの考え方を引き合いに出して説明し、いかに民族レイシズムが不条理であり、いかにさまざまな場所ではびこっているかを示そうとした。
ところがそれが裏目に出た。アフリカ系アメリカ人の学生たちは、ぼくが例としてあげたアフリカからの移民に対するステレオタイプな偏見の例を聞いて、そのとおりだと納得した様子でうなずきはじめたのだ。
だが、アンチレイシストであろうとする者は、国内外の民族集団の違いを認めて平等に扱い、世界中の人権化された民族集団を苦しめるレイシズムポリシーに異議を唱え、人種化されたすべての民族集団間の不公平の原因はポリシーにあると考えなくてはならない。
授業のあとで、教室を出ようとしていたぼくの前に、さっきのガーナ人学生が立ちはだかった。彼は、ふたたび長々と自説を語った。話が終わり、ぼくは質問をしてもいいかと尋ねた。彼はうなずいた。