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記者生活40年以上、池上彰氏が森友事件で痛感した“ジャーナリズムの真骨頂”

池上彰(ジャーナリスト)

2023年07月20日 公開

わかりやすい時事問題の解説で人気を集める、ジャーナリストの池上彰さん。池上さんは、小学生の頃から将来の夢が新聞記者だったといいます。

昨今新聞を購読する人は減少しており、魅力がいまいち分からないという人も多いはず。そこで、池上さんにご自身のエピソードを交えながら、新聞を読むことの面白さについて語っていただきました。

※本稿は池上彰著『新聞は考える武器になる  池上流新聞の読み方』(祥伝社)より一部抜粋・編集したものです。

 

一冊の本が、人生を決めた

小学生の頃から、本を読むのが大好きでした。放っておくと、食事の時間も忘れて本を読んでいたため、母親によく怒られたものです。それでも隠れて本を読み続けました。そんな小学生が、一冊の本に出合いました。

朝日新聞社から1962年に出版された『続 地方記者』(朝日新聞社)。地方で活躍する新聞記者のドキュメントです。この本で「新聞記者」という仕事を知りました。「特ダネ」という言葉にワクワクさせられ、その仕事ぶりに憧れ、「地方の新聞記者になろう」と決心したのです。

一冊の本が、人生を決めました。

後日、「続」ではない『地方記者』(朝日新聞社)も古書店で手に入れましたが、内容はいまひとつでした。続編に先に出合わなければ、ジャーナリスト池上彰は生まれなかったかもしれません。

活字に飢えていた小学生時代、新聞を読むのも大好きでした。政治や経済についてはまだよくわかりませんでしたが、事件や事故の記事が詰まった社会面は、毎日くまなく読みました。

高校生のときには、ベトナム戦争の記事を熱心に読みふけりました。特に朝日新聞に連載された、本多勝一記者のルポルタージュ『戦場の村』(朝日文庫)には衝撃を受けました。ベトナム戦争は、世界のことを考えるきっかけになりました。

大学生時代には「学園紛争」が激化し、毎日のようにデモや集会が行なわれ、学生と機動隊が衝突していました。マスコミや報道に違和感を持ち始めたのは、この頃です。自分の目の前で起こった事件が、新聞やニュースでは、違ったニュアンスで伝えられていると感じたからです。

正しい報道とは何だろう? そんな疑問を抱きながら、マスコミへの就職を意識するようになりました。

のちに人気の就職先となったマスコミですが、当時は全く状況が違いました。マスコミ志願者は「一般企業には入れない落ちこぼれ」と言われていたほどです。入社試験も一般企業の内定があらかた出た頃、遅い時期に行なわれました。

しかも、民放はコネがなければ入社試験さえ受けられないところがほとんどでした。実はある東京の民放に「試験を受けさせてください」と直訴したのですが、断られました。一般公募をしているマスコミは、大手新聞社、通信社、そしてNHKぐらいでした。

私が願書を出し、試験を受けたのはNHKです。朝日新聞も興味があったのですが、試験日がNHKと同じ日だったこともあり、NHKのみ受験することにしました。

朝日新聞は、子どもの頃から読んでいたので、馴染みがありました。運命の一冊『続 地方記者』も朝日新聞社から出版されていました。

一方、NHKにも大いに魅かれました。きっかけは、日本中がテレビに釘づけになった連合赤軍による「あさま山荘事件」(1972年)でした。実況生中継の威力を目のあたりにし、「これからはテレビの時代かもしれない」と思ったからです。

「記者」になれるのは新聞社だけではありません。NHKは全国に放送局があり、新人は必ず地方に配属されるのです。新聞ではありませんが、まさに「地方記者」への道が叶うのです。

1973年4月、NHKに入局しました。

2カ月間の新人研修が終わろうとする頃、配属先の希望を聞かれた私はこう答えました。

「なるべく西。しかも、できるだけ小さな町に行きたい」

今はともかく、当時は新人の赴任先など、希望どおりになるものではありませんでした。同期のアナウンサーは「北に行きたい」と希望し、「北九州放送局」に配属されたほどです。なかなか洒落がきいていますね。

私の本命は山陰地方でした。学生時代の貧乏旅行で、山陰地方だけは行き損ねたからです。

こうして決まった赴任先は、松江放送局。西にある小さな町という希望が叶いました。「小さな町に行きたい」なんて希望する新人は、なかなかいないからでしょう。

憧れの「地方記者」に、ついになれたのです。

 

「新聞ななめ読み」掲載中止事件

1989年4月、16年間続けた記者生活に別れを告げ、テレビのキャスターへと転身することになりました。記事を書く立場から、テレビの画面に顔を出してニュースを伝える立場になり、意識も生活も大きく変わりました。

「週刊こどもニュース」の「お父さん」として、徹底的に「わかりやすさ」を追求するという経験をすることもできました。

2005年3月、私は「週刊こどもニュース」のキャスターを降板し、NHKを退職しました。記者を16間務めた後、「テレビの人」になってから、すでに16年がたち、記者とキャスターの期間がちょうど同じになっていました。

定年を前にして退職したのは、これ以上NHKにいたら、「私は記者でした」と言えなくなってしまいそうだったからです。NHKを辞めた私は、あらためてフリーの一記者としての仕事をスタートしました。

新聞記者にはなりませんでしたが、新聞に連載を持つようになり、結果的には、新聞に原稿を書く立場になることができました。学生時代、一度は就職先の候補だった朝日新聞にも、「池上彰の新聞ななめ読み」というコラムを連載しました。

しかし、私がキャスターをしていた16年の間に、新聞も、新聞を取り巻く環境も、大きく変化しました。そうした変化の中で起こったのが、「新聞ななめ読み」掲載中止事件です。

「池上彰の新聞ななめ読み」は、東京本社発行の夕刊に週1回連載されていました。当時の編集長から言われたのは「何を書いていただいても自由です」ということでした。実際、朝日新聞であろうと読売新聞であろうと、おかしいものはおかしいと、自由に書かせてもらいました。

念頭にあったのは、アメリカの新聞です。『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』は、社説の反対面に、自社とは異なる主張をする人のコラムを掲載しています。社説(Editorial)に対抗(opposition)する記事という意味で、「Op-Ed」(オプエド)と呼ばれます。

朝日新聞は「池上彰の新聞ななめ読み」を「Op-Ed」にしたいのだろうと考えていました。その後、「ななめ読み」は月に1回、朝刊の連載に変わりました。

しかし、朝日新聞を批判した私のコラムが、掲載中止になるという「事件」が起きてしまったのです。

2014年8月、朝日新聞は32年前の慰安婦報道についての検証記事を掲載し、誤報を認めて訂正しました。その勇気は評価すべきだと思います。

しかし、訂正はしたものの、謝罪はありませんでした。そこで、お詫びがないのはおかしい。そう率直に書いたところ、掲載できないと言われたのです。新聞社には編集権というものがありますから、業界のルールにのっとって、私はその決定に従いました。

とはいえ、「何を書いてもいい」という言葉への信頼は損なわれてしまいました。だから、連載を打ち切りたいと申し出たのです。

ここまでは、私と朝日新聞との個人的なやりとりでした。しかし、私がロシア取材に行っている間に、コラムが掲載中止になったという話が、週刊誌に伝わっていたのです。朝日新聞社内部からの告発だったようです。

当時、ロシアで取材中の私の携帯電話に、最初に電話してきたのは『週刊新潮』でした。さらに、プレジデント社の編集者からのメール、『週刊文春』からの電話と続きました。

先を越した『週刊新潮』に抜かれまいと思ったのか、『週刊文春』がネットに記事を掲載。それが「Yahoo!ニュース」のトピックスに載りました。国内外の朝日新聞の記者たちもツイッターで「恥ずかしい」「納得できません」とつぶやき始め、大きな騒ぎになってしまったのです。

朝日新聞は掲載拒否を撤回・謝罪しました。その後、朝日新聞は体制を刷新。紙面改革も進めたので、連載を再開することにし、2021年3月まで続けました。

これほどの「事件」を経てもなお書き続けたのは、インターネットに押され、部数が激減していても、社会の知的基盤を支えるインフラとして、新聞の果たす役割にまだまだ期待しているからです。そして、何よりも新聞が好きだからです。

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森友文書改竄で記者の「共感力」あらわに

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